「桃花源記」から思ったこと

 有名な「桃花源記」の最後は、太守(長官)が実際に行ってきた漁師をガイドに人を派遣して探させたが、行き着けなかったという話と、その後、高潔の士が行こうとしたけれど果たせなかったという二つの話題で終わる。
 なぜ、行き着けなかった話が二つ続くのか。ひとつでいいではないか。なぜだろうというのが最後の質問となる。
 これに対する答えは、もちろん、二つともないといけないというもの。
 二人はそれぞれ立場が違う。太守は管理者(為政者・役人)として、興味を持ったのであり、高潔の士は俗世を離れて高潔を守るため、つまり、思想上、そういう場所があることを喜んでの行動である。
 しかし、二人とも行き着けなかった。俗な太守は行き着けなかったが、高潔の士は行き着くことができたというのなら、二人の志の差ということで、二つ並べる意味は判るし、道徳的結論で、すっきりする。しかし、高潔の士のほうも駄目だったのである。それはなぜか。
 陶潜の描いたこのユートピアは、派手で贅沢なものではなく、服装も我々と同じ、豊かな土地で、人びとは楽しみながら農耕に従事している平和な村である。つまりは「コミュニティー」。高潔の士は、個人の思想として、俗世を避ける遁世思想を持っている訳であるから、この土地の共同体の中で、平和に楽しく仲良く暮らすというのとは少々異質で、これはこれでこの社会にはそぐわない。故に彼も拒まれたのである。こう考えると二人とも駄目だった理由はすっきり理解出来る。

 さて、ここからはちょっと指導書に違和感を感じた話。
 ちょっと繰り返しになるが、太守がなぜ探そうと思ったかは、はっきりしている。耕作が行き届いた豊かな土地があって、自分で管理していないところがある。ここを自分の管理下・支配下におくと、より収益(年貢・徴税)を上げることが出来る。つまりは、「利権」のためである。
 ところが、指導書の解答例はこうであった。「珍しい村を見てみたいという興味」「自分の治める土地のことを知っておくため」など。
 珍奇なものへ興味関心や仕事(業務)としてという解釈である。もちろん、それは間違いではないし、この太守は真面目で職務に忠実な者であると受け止めるとそうなのかもしれない.しかし、飢饉があったら飢え死にすると いうような当時の状況の中で、豊かな土地への憧れが、当時、どれほど強かったかは簡単に推察することができる。そしてそういう土地があるなら、何としても手に入れたいと思うことは当然のことである。だから、何だか、指導書の優等生的な答えは、豊かで平和な時代ならではの模範解答にすぎないような気がして、私はかなりのピンぼけ感を感じた。それもあるでしょうが、ちょっと違いませんかねえという違和感。

実は訳もちょっと違和感が。
 「欣然として往かんことを規(はか)る。未だ果たさず、尋(つ)いで病みて終はる。」
ここが「喜んで行こうと計画したが、未だ計画を実行できないうちに~」というニュアンスの現代訳であった。しかし、これではトライもしなかったということになる。トライはしたのではないかしら。「行き着くことを果たさず」とか、「行き着くという志を果たすことができず」とかいうほうが余程しっくりくる。

 去年、源氏冒頭の、桐壺の更衣と藤壺、幼い光源氏が似ているという話のところで、文章中、何度か出てくる「誰が」「誰と」が似ているのかというところが、どうも指導書ではしっくりこず、色々調べるにつけ、いくつも違った解釈があって、先生方は全員混乱した。それで、図書室に先生方が調べにこられたり統一の打ち合わせをした。
 色々な解釈ができる古典は、あっちこっちで、困ったことが起きる。
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# by hiyorigeta | 2017-06-12 19:45 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

ローソンのガラス皿

ローソンのパンについているシールを集めて貰えたお皿。昔に較べてハードルが高く、一枚ゲットがやっと。写真の奥は前回のお皿で、同じかと思っていましたが、今回のほうが結構大きい
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# by hiyorigeta | 2017-06-11 09:06 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

スキンをかえました

 気分をかえて、ひさしぶりにスキン(背景)をかえてみました。期間限定の予定です。いつも使っているのはベーシックというタイプです。
 一行が長くなって、文章向きかなと思うのですが、字が小さいと思う人は、パソコンの拡大機能を利用して少し大きくしてお読みください。
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# by hiyorigeta | 2017-06-04 02:04 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

漱石先生には注意

 テストで「カンニンしてください。」の漢字を聞いた。答えは、もちろん「堪忍」。「勘弁してください」と意味的によく似ている。何がちがうのだろうとネットで検索した。
 「堪忍」のほうは、漢字通り「堪え忍ぶこと」なので、相手の言い分がまったく不合理で納得できなくても堪え忍ぶというニュアンスなのに対して、「勘弁」とは、相手の言い分に一部合理性を認めるけれど、今回に関しては、赦しもらいたいなんて時に使うという。なるほど、確かに無意識ながら、私もそういうニュアンスでちゃんと使い分けているように思う。

 ところで、間違いの多くは二つを混同した「勘忍」。バツをつけていたら、別の採点者から「これでも丸をつけてあげてくださ い。」との連絡が……。
 解せないので、辞書やネットで調べてみても、「勘忍」を許容とする説明はない。それで、その方に判断の出所をきいたところ、「出題した問題集の本文がそうなっています。」とのこと。見ると、確かに。
 本文の出典は、夏目漱石の「それから」。 
 漱石先生の文章かあ。やられた~。
  漱石先生の当て字・誤字は、業界(?)ではつとに有名。一番有名なのは、サンマ(秋刀魚)を「三馬」と書くやつ。この手のことには無頓着な御仁である。
 問題集は、漱石先生の原文通り載せている。
 ということで、これに気が付かなったこちらが悪いということになるのだが、出題意図としては、「「勘弁」と「堪忍」はよくにているけど、漢字が違うんだよ。」ということを問いたかったので、この漢字問題、意味をなさなくなった。
 ちなみに、解答のほとんどは間違いのほう。漱石先生と同じ。「堪忍」と正確に書けた人は一クラスに数人しかいなかった。

 それにしても、前にも書いたけど、近年、登場人物の名前を間違えて書く人が増えてきたなあ。今回も、代助を平助、三千代を三代子とか、名前を勝手に創作している。
 なぜ、そんな単純間違いするんだろう。
 それと、言葉の使い方のニュアンスが雑になってきたような気がする。例えば、親しい相手に「こうしたらいいんじゃない」という発言は「提案」というのはいいけど、「提言」というのは、ちょっと違うのではないかななと思う。ちょっと大仰しいようにかんじないのかしらん? 
 他に、例えば、この行為は今からするのだから、この答えは「~すること。」であって「したこと。」ではちょっと違うでしょ、といった感じの小さな違和感をいくつも感じた。
 おそらく、日頃、本を読んでいない人は、そういうニュアンスの部分がちょっと怪しくなっているのだろう。採点していると色々気になる。
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# by hiyorigeta | 2017-05-30 06:10 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

「オーディオ風土記」田中伊佐資(ディスクユニオン)を読む

 同僚から上記のオーディオ本を貸していただいて読む。月刊専門誌に連載されていたオーディオルーム訪問記事の集成である。
 いやあ、皆、オーディオ道何十年という感じの部屋ばかりである。音質向上のため部屋自体を大きく改造してあるものなど、お金をかけたマニアぶりがうかがえる。CDの人もいるけれど、多くはアナログ派である。
 それにしても、一番の印象は、昔、名機と呼ばれた高級機を今も大事に使っていることで、そこそこレベルの最新機種をとっかえひっかえしているわけではないということ。
 かけるときにはお金をかける。そして、大事に末永く使う。そんな感じである。アナログの機械は、もう代替機がないものも多く、それを修理しながら使っている人も多い。
 全部で一千万円はくだらないだろうなあというような部屋ばかりで、到底、まねのできるものではないけれど、今後も、死ぬまで音楽鑑賞は趣味としてやっていきたいので、こうした長いスパンで色々オーディオを探究している様子はうらやましかった。その人がオーディオ・チエック用に聴いているソフトも紹介してあって、この人は、この機材で、こうした系列の音楽を聴いているのかと参考になった。それぞれのジャンルと再生装置のチョイスで、おそらくこんな音が出ているんだろうなあと想像することができる。

 オーディオ・グレードのスピーカーケーブル購入、スピーカーの安定や防振対策など今後しなければならないことがいくつかあり、今は、ちょっとオーディオ趣味のほうに気がいっている。
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# by hiyorigeta | 2017-05-27 20:01 | 音楽・ジャズ・オーディオ | Trackback | Comments(0)

「栴檀は双葉より芳し」

 職場での居場所が変わったので、外の景色も違う。窓は隣の棟に向いているので、景色的にはぱっとしないが、入口側の廊下越しには木々が見える。
 盛んに小さな白い花をいっぱいつけている結構大きな樹木があって、おそらく先日からちょっと花粉のにおいがしていたのは、この木のせいだろうと予測がついた。
 なんという木なんだろうと同僚に聞いてみると、木には名札がついていて、それには「センダン」と書いてあるという。あの「栴檀は双葉より芳し」の「センダン」ですかねと私。その日は、これで終わったのだが、翌日、図鑑を見せてくれた。どうもあのことわざとは違うらしい。あのことわざの「栴檀」は「ビャクダン」のことをいうとある。
 確かに、東洋の香りとして「白檀」は代表的なもので、あれだけの香木、双葉からいい匂いがするんだろうなと、改めて、ことわざが実際のにおいと連結して認識された。
 図鑑によると「センダン」のほうは、学校などによく植わっているらしく、まさにうちの職場も同様である。おそらく、学校にあるのは、このことわざがらみであるにちがいなく、結構、間違えて「これだよ」と教えてきている歴史もありそうである。

 今はちょっと盛りを過ぎて色あせてきているが、かわって通勤途中の道の住宅の庭にはヤマボウシの白い花が満開で美しい。
 なんという花なのか知らず、調べてヤマボウシと知ったのだが、初夏を告げる花と書いてあって、まさにそんな時節に咲いていて、これまで十年同じ道を通っていて、ちゃんと認識したのは今回が初めてで、これまで何見ていたのだろうという感じだった。

 同僚からは、今の時期、白い下向きの花、エゴノキ。ピンクのタニウツギ(谷空木)も美しいと教えられて、ネットで繰ってみた。ああ、確かに見たことのある花々である。
 
  栴檀は間違えられて格を上げ
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# by hiyorigeta | 2017-05-25 20:08 | 季節の話題 | Trackback | Comments(0)

凡事徹底

 若い教員の方の座右の銘に「凡事徹底」という言葉を上げている人がいて、それが偶然か何人かの中に二人いた。
 四字熟語のようだが、正直、初耳である。ただ、言いたいことは判る。「平凡なことを徹底するところから始めなさい」。
 座右の銘にしている人がいるくらいの四字熟語を知らないのは、この商売をしていて情けないなあと、まず、広辞苑をくってみたが出てこない。そもそも、「凡事」が言葉としてない。日本語として意味が通ることからの造語かもと、ネットのほうで調べると、すぐ出てきた。
 車関連企業イエローハット創業者書いた本の中で提唱している言葉だそうで、トイレ掃除や洗車といった「凡事」を大切して、「平凡を非凡に努める」ことが重要と説いているようである。「非凡に努める」とは、つまり、まず、そういうところで能力を発揮し、人に抜きんでろということかしら? 
 もちろん、その精神は企業人として間違いないし、社訓的にも素晴らしい。
 今回、私としては、さっきも言ったように、もういい歳な上に、難解漢字ならいざしらず、簡単な漢字で出来上がっているのに、一度も聞いたことがない四字熟語ってあるんだとちょっと残念に思っていたので、最近、一個人が作った造語だと知って、ちょっと安堵したというだけの話である。
 ところで、ネットで読んだこの方の著作の紹介文には、この本には、芥川龍之介のことばとして「人生は瑣事に苦しみ 、瑣事を楽しまなければならない」というのを引用して説明してあるというようなことが書いてあった。
 でも、これには、ほんのちょっと違和感があった。前半は、芥川がいかにも言いそうな言葉だが、彼がこんな明るい結論を言うだろうか。それに、出典は「侏儒の言葉」らしい。それなら、なおさら。そこで確認してみると、本文はこうあった。
 
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出 した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。
 
 やはり。芥川は、人生の幸福のためには日常の瑣事の中に「堕地獄の苦痛」を感じなければならない、つまり、瑣事は愛さなければならないが、瑣事は苦しいと言っているのである。苦しいが結論では、論旨に合わなくなる。そこでひっくりかえした。一度、原典に立ち戻ると、こうした、ちょっとニュアンスが違うぞというようなことは時々ある。
 
 今回、著作を読んだうえではないし、紹介文を書いた方のまとめた言い方なのかもしれず、心もとないが、ここで言いたかったことは、犯人捜しや中身の話ではなくて、引用をする上での注意の話。
 自分が引用するときには、悪意なく無意識にこの種の引き寄せをしていないか、人の引用を読むときにも、もしかしたら、そうなっていないか、ちょっと気をつけないといけないなという自戒。
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# by hiyorigeta | 2017-05-24 21:51 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

一安心

 我がマンションのすぐ横にはかつてコンビニがあって重宝していたが、閉店。更地になって数年たった。駐車場も含めるとマンションが建設できる広さなので、ドンと高層ビルが建って、日当たりが悪くなるのではないかと恐れていたところ、昨年秋、敷地の一部に平屋が建ちはじめ、車の洗車やメンテナンスのお店が開店した。今後、小路の横からの車の出入りがあって気をつけねばならなくなったが、高層ビルや深夜も営業するような音の出るお店でなかったので一安心。平屋というのも、正直よかったと思う要素であった。
 雪の季節に洗車に訪れる北陸人はほとんどおらず、他人事ながら大丈夫かと思っていたが、春以降、冬タイヤからの交換、黄砂落としの洗車と、それなりに軌道に乗ってきたようで、ご同慶の至り。こちらとしては末永い繁盛を祈るばかり。
 我が町内は高さ制限の町内会合意が成立しなかった町会なので、日照権での高さ制限もなく、こうしたハラハラを抱えている。
 あのコンビニがなくなって、ちょっとしたものを売っているお店が近くになくなってしまった。家にないものに気がついて、パーッと階下まで下りて買いに行ったり、夜、最寄りのバス停から家まで帰る時に、ちょっと寄って小腹を満たすものを買ったりと、当時は何かと重宝していた。そういえば、夏の夜、暑くて暑くて、さっとビールを買ってきて飲めたのも便利だったなあ。
 さて、新しくできた車ショップ。重宝するかといえば、車は自分で洗っているし、そうそう行くところではなく、こちらのメリットはほとんどないのが残念。なんでもいいけど、使えるお店ができてほしかったなあ。
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# by hiyorigeta | 2017-05-15 20:49 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

竹の子の季節


 毎年恒例の筍料理を食す会。いつもはGW後の土曜日開催だったが、今年は四月の終わり、GW前に開催。いつも行く栽培農家に夕刻集合。
 最盛期の時期だけに、個室仕様ではなくて、襖をあけて、他の客と一緒にいただく卓並びであった。大学勤務は定年が六十五歳なんだ、羨ましいねえなんていう話がでる。
 食べ終わり外に出ると、町中と違って明かりが強くなく空気が澄んでいるので、星がよく見えた。一瞬、星を見る会となった。
 裏年ということで、今年の竹の子はこれだけかなと思っていたら、時期外れに近い一昨日になって、愚妻が二本いただいてきた。それで、ちゃんと今年も家で筍尽くしをいただくことができた。野生で少々伸びすぎのようだったが、採って数時間という新鮮さだったので、ちゃんと柔らかい。

 昨夜は、県総体に向けての景気づけの宴会が近くのホテル別館のイタリアン・レストランであり、美味しい料理をいただいた。こうした場所は、個人的にめったに行かない。
 悠々自適になると、こうした職場単位の公的な宴会はなくなる。来年は一年間、歓迎会とか頑張ろう会とか、「この名目での宴会はこれで終わりだな。」みたいな感慨を持ちながら飲むことになるんだろうな。今は、その「プレ」的な気分で宴会に参加している。

 最近のテスト作成の仕事。一種類でも、昔に較べ選択問題などがあって模範解答込みで十頁ちかく作って印刷せねばならなくなっている。コースが分かれていたり、いろいろな配慮が、どんどん 複雑なテストづくりへと変化して、できたものを関係者に見てもらうと、完璧だと思っていても何か所もミスが発見される。それに、それぞれの方の授業に合わせた汎用性も持たせねばならず、たった一種類作るだけでも手間は相当なものとなる。教員の仕事は、もろもろこんな風に複雑化してきており、ひとつひとつはちょっとした手間の増加程度のものがこうも押し寄せてくると、気が滅入る。今後、軽減の方向にいくとは思えないので、これからずっとこの商売をやっていく若い人たちは大変だ。
 一応、週末前に完成させて帰宅。休日に持ち越さずに終わって、気分的に楽。

 先週の休日は親戚のことでその家に行ったり、今週は別の親戚とファミレスで十年ぶりにあったりして、ちょっと色々な血の縁を感じる一週間でもあった。両日とも、五十年近く前の記憶を色々喋った。  

 今、道路の街路樹の根元は躑躅が満開である。赤・ピンク、それに時折白色が混ざり、鮮やかな色あいが美しい。暑い日も混じるが、朝方、ちょっと羽織るものが必要な時もありで、季節が進んでいく。

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# by hiyorigeta | 2017-05-14 21:41 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

GW中、金沢は大混雑

 これまで黄金週間は全日仕事でつぶれて休みなしが続いていて、行きたかった「ラフォルジュルネ金沢」にもずっと行けないでいたが、今年は、前半の連休と後半五連休の初日と二日目午前中以外は休みとなった。
 ところが、あろうことか、肝心の「ラフォルジュルネ」が金沢から撤退してなくなってしまっていた。あれれ、今後どうするんだろうと思っていたら、地元の実行委員会は、急に「風と緑の楽都音楽祭二〇一七」と銘打った音楽フェスティバルを開催することにし、存続をはかった。大事な連休集客行事である。そのままやめる訳にはいかなかったのだろう。
 この新しい名前、タイトルの「風と緑」は、まあいいけれど、「楽都音楽祭」という造語のほうは、どうにも座りが悪い。いまひとつのネーミングのように思わないでもない。
 二月ごろ発行されたパンフを見つけたが、正直、魅力的な人はあまりおらず、今年はパスかなと思っていたら、愚妻がチケットを人様からいただき、急遽、行くことになった。

 第一回の今年は「ベートーベン交響曲全曲&ピアノ協奏曲全曲」という特集。入手したのは交響曲第四番。「英雄」と「運命」に挟まれた地味な曲なので、こちらまで回ってきたのかしもしれない。だったら、一番二番なんて集客はどうなのだろう?
 指揮はこの音楽祭に参加中の高雄市交響楽団の指揮者のチー・チン・ヤン氏。オケは地元OEK。交響曲の前に演奏した「コリオラン序曲」は、序曲らしく短くよくまとまっていて楽しめる曲。
 肝心の四番は、前から思っていたのだけど、中間の緩徐章が思いのほか軽快で、第三楽章はちょっと終わった感のある終わり方までしている上に、終章の盛り上がりが今一つで終わってしまう。つまり、メリハリに欠ける印象があったのだけれど、やっはり、久しぶりに生で聞いても、間違いなくそうだなと確認してしまう印象となった。演奏自体は、きっちりした判りやすい解釈で、オケの第一バイオリンは美しい。集客も思った以上で一安心。

 音楽堂でコンサートの時は、エスニック料理店に寄るのが定番になっていて、今回は始まる前のランチでもと思って行ったら、潰れていた。
 その場所はパンケーキの店になっていて、GWということもあり、驚くほどの行列を作っていた。ここのところ、フワフワとろとろのパンケーキがブームになっているので、たぶん、中央の有名店が出店してきたのだろう。
 また行くところがなくなってしまった。結局、そのパンケーキ屋さんの前にあったうどん屋さんでお昼にする。
 町は県外観光客の入れ込みと地元民のショッピングで本当にごった返していた。帰りのバスの中で、まだ夕飯時には早い時間なのにおでん屋さんに列をなしている様子も見えた。冬でもないし、こんな早い時間からおでんかいと、ちょっと呆れ気味に同情した。
 以前にも書いたことがあるが、金沢はおでんの名店が多いという地元民が知るマイナーな地域情報が、ネットで拡散、全国周知となって、こんなことになった。
 断言しますが、金沢おでんって特に変わったものでもありありませんよ。ちょっと、太平洋側にはない具材があるという程度。べちゃべちゃ雪が降る寒い夜に、繁華街に出て、こんな夜は、どこかでじっくり熱燗でも飲みたいなというシュチエーションだったら、もちろんお勧めしますがねえ……といった感じにすぎない。
 県外の方、こんな時に金沢に来ても、人が多すぎで、思うように色々できません。待ってばかりの観光になって消化不良で終わってしまうのがオチです。ご注意を。

 さて、この連休、私はといえば、このお出かけ以外は、新スピーカーの慣らしを兼ねて、クラシックやらジャズやら色々聴いてすごしました。
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# by hiyorigeta | 2017-05-07 21:29 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きしたり、日々の生活や趣味をつぶやいたりするブログです。アップが日付順でないことがあり、また、文字ばかりですが、ご容赦下さい。http://tanabe.easy-magic.com


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