2015年 08月 10日
図書の仕事から
見学した図書館は、市内の四つの図書館のうち、保存の役割を担う図書館ということで、書籍の他、雑誌類の保存スペースも大きかった。それは地元発行のパンフ・冊子類にまで及んでいたが、さすが市の施設らしい収集方針であると思った。確かに、そういうものは地元しか収集できない。
隣接のこども図書館も見学。子供の施設の割に妙に四角くてデザイン性に欠く建物だと思ったが、はたして、たばこ産業株式会社金沢支店の建物を買い取ったものだということで納得した。だからか、少々部屋がだぶついている印象であった。
ここ玉川公園の大きな一区画は、昔、専売公社の工場があり、煉瓦造りの工場棟が並んでいた。それが取り壊され、私はこの近所の予備校にかよったものだから、工事中の広い敷地は、勝手に予備校生が草野球場として使っていた(その時の様子は、以前書いたような気がする)。公園になって相当たつ。専売公社時代の景色を知っている人は、今や少数派である。
職員の説明では、市内の小学生は年六十冊本を読むが、中学生では一気に六冊に激減し、高校生はその半分で、図書関係者の悩みの種だという。読まないのは「忙しいから」という理由らしい。金沢の高校生はまともに本を読まないというこの現実に、やはり、という気がした。
大昔、読書会の助言者などで参加していたこの行事。十五年ぶりくらいに参加したが、参加生徒が激減して、こじんまりしたものになっていた。参加生徒の熱意も昔ほどではなく、「本を読む」「本の内容で激論を交わす」「本を身近に」「本を愛する」といった方面に関して、変な言い方かもしれないが「廃れている」のを感じた。
その分、情報機器の操作が得意とか、情報の切り貼り力が得意とか、他の分野の能力が高まっているのだろうが、学問を身につける基礎能力という意味で、それらが代替たりえているのかは疑問である。
近年、英語特区とか、プレゼンテーション能力とか、国際感覚の涵養とか、ノーベル賞級の科学者の養成とか、美辞麗句の教育方針を色々聞く。こうしたキラキラ目標への大人の努力の陰で、「じっくり活字を読んで思いを巡らす」というもっともベーシックな能力の育成は、少なくともここ金沢では閑却されている。