「城の崎にて」雑感

 「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」(志賀直哉「城の崎にて」)

 有名な冒頭部分。ここを読んで、強烈な書き出しだと思った人が若い人には多いようだ。ネットでは、「よく助かったな」「奇跡的だ」とかなんとか書かれている。
 私が初めて読んだのは、御多分に漏れず、教科書で、それには、確か当時の山手線の電車の写真が載っていたので、ああ、金沢で走っていた路面電車の専用軌道バージョンみたいな感じだなと思った覚えがある。だから、あまり違和感はなかった。現在のJR山手線のような柵に囲まれた専用軌道をかなりのスピードで進むイメージをしてい るから、こういう発想が出るのだろう。そんなイメージでは、そもそも接触すること自体、柵を乗り越えるとか、故意でないかぎりありえないと思っても無理はない。
 おそらく、当時は、一応、専用軌道ではあったが、スピードは、走るほうが早かった路面電車に毛の生えた程度のスピードだったのではないかしら。例の、路面電車前面には救護ネットがあって、ひっかかると跳ね上げられ、ネットに救い上げられるしかけで多くの人は助かったので、それが働いたのかもしれない。ただ、この時、山手線にそのしかけがついていたのかどうかなどについては分からない。
 いずれにしろ、「生きていたのは稀有のこと」というのは少々行き過ぎのような気がする。過剰な「ミラクル」感は不要のように思う。もちろん、この九死に一生を得る体験が作品の生死の考察に至る端緒になっているのは間違いないが。
 もちろん、怪我自体はかなりの重傷で、奇跡的な回復だったの は間違いない。それは、以下の怪我の描写などからわかる。

 「昨年の八月十五日の夜、一人の友と芝浦の涼みにいつた帰り、線路のワキを歩いてゐて不注意から自分は山の手線の電車に背後から二間半程ハネ飛ばされた。脊骨をひどく打つた。頭を石に打ちつけて切つた。切口は六分程だつたが、それがザクロのやうに口を開いて、下に骨が見えてゐたといふ事である」(草稿「いのち」) 

 当時、十二日間で退院というのは、すごく早い部類ではないかしら。強靭で若かったからこそ。
 ところで、養生の場所が、なんでこんな遠い城崎だったのだろうというのは、だれでも思うこと。人に勧められたということらしいが、列車で移動するだけでも大変だったろうに、という素朴な疑問につ いては、彼は事故(大正二年八月)の直前まで尾道に住んでいた(大正元年十一年~大正二年五月)ので、あながち中国地方の温泉場が遠いところという感覚もなかったのだろうというネットでの説が、結構、なるほど、そうだろうなあと思って納得した。(但し、ネットは尾道在住中のような記述であったが、それは間違い)。ちょっとは遠いけれど、山陽の人が山陰のほうに怪我養生するによい温泉場があるよという情報に彼は乗った。

 また、これもネットからの知識だが、最初から「三木屋」に決めたわけではないのだという。当初、別の宿の予定だったが、雨で宿に浸水があったり、気に入らなかったりして、この宿になったという。偶然にこの宿に決め、それが、作品の威力で、志賀が逗留した宿として超有名になった。その時はだれもこんなことになるとは思いもよらなかったことだろう。
 彼の泊まった部屋は今も泊まることができるそうで、その報告記をネットに書いている人の記事も読んだ。宿は雰囲気を壊さないように注意しながら、平成に入ってリニューアルしたということで、宿のHPを見る限り、外見は昔風ながら内部は古めかしくなく、今時の和風建築の雰囲気もある。
 三木屋は、外湯の「一の湯」をだいぶ過ぎたと ころにある。だから、

「一人きりで誰も話し相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前に椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮らしていた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集まっている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然として居るのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、寂しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事は矢張り沈んだ事が多かった。」
 
という、この温泉場の奥に入っていく散歩ルートは、三木屋あたりで、山裾が少しずつ迫ってきている ので、文面の印象以上に、宿から結構近いところを歩いていた感じであった。実地に行くと、色々そのあたりのニュアンスがわかって面白い。

 我々文学散歩の一行が昼を食べた三木屋近くの食事店では、料理が出てくるのを待っている間に蜂が入ってきたので、メンバーが摘まんで外に放り出していたが、そこの主人によると、山が近いので、蜂の巣があって、多く飛んでくるという。
 「城の崎にて」の生き物たちの死の話の一番目は、宿の見つけた蜂の死の話である。だから、まさに蜂の死の様子は、この宿にいて、実際に目撃して、死への考察の契機になった「事実」なんだろうと思った。一番目にしたのはそういう印象深さからではないかしら。
 実は、生き物の死の話や葉っぱの話の全部が城崎 での出来事かと言えば怪しいと思っている。この作品は小説である。同テーマで、これまで経験したことを寄木細工にした部分もあるのではないかしら。鼠の話も温泉場の通りに流れる小川での出来事ということにして、実景に合わせているが、それこそ、後付けという可能性もあるのではないか。城崎といえば、あの温泉場の道路の真ん中に流れる川が印象的だから、リアリティを持たせるために利用した、とは言えないかしら。いもりの話も、もしかしたら別のところでの経験かもしれない。

 御存知のように、この作品は実際の逗留(大正二)から作品が発表される(大正六)まで、えらく時間がかかっていて、経験したことを一気に書いた作品ではない。それも、この話が事実の集積であると信用しづらい理由のひとつになっている。本当にまとめて生き物の死をまとめて多く見せつけられたら、感興をおこして、一気に書き上げるのではないかしら。
 と、実際の現地での体験かどうかということを書いてきたが、本当のことを言えば、どっちだろうと作品の本筋とは関係がない。よく読むと、この作品、何気なく書いている随筆のような顔をしているが、緻密に構成され、最後の異常な気持ちに至るように書いた作品だということが大事で、私がこの作品を読んでいつも思うのは、「この作品は、実に小説だなあ。」というもの。

(以上、城崎旅行に行ったので、後勉強として、チラチラとネットにキーワード入れて検索してみて、載っている情報を使って「雑感」を書いたもの。ぜんぜん厳密ではありません。先行論文を参照の上、なんてことでもない。もしかしたら、誤認しているところもあるかもしれません。)


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by hiyorigeta | 2017-09-01 22:40 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きしたり日々の生活をつぶやいています。文字ばかりですがご容赦下さい。時々日付をさかのぼってアップしたりします。http://tanabe.easy-magic.com


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