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試行テストを斜め読みする

 今回は、ちょっと真面目に今後の国語教育を考えます。
 同教科の教員の集まりで、最近、漱石の「こころ」は、教科書によっては、「明治の精神」の部分が省略されるようになったねえという話が出た。そのため、Kの自殺に気づく場面で終わってしまって、明治の精神とつなげる授業は省略されることが多くなった。手ごわいテーマで、さらっといくわけにもいかないという事情もある。
 でも、ベテランたちはそれを残念に思っていた。明治・大正という時代の雰囲気を理解するにはいいチャンスなのに。そのことをイメージさせることは、歴史観にもつながり、文型人間として大事なことだ。各章の読み取り作業だけをやっていてもねえ。

 さて、先日、今の中学三年生の代から実施される新共通テストの試行問題が公開された(大学入試センターWEBサイトにあり)。記述問題の採点が業者まかせになるが公平性は保たれるのかなど、数々の問題が指摘されている例の新方式のテストのことである。
 一問目は「生徒会部活動規約」が書いてあって、それに対する会話がのっている。二問目は、図表や写真などを使いながら説明している実利的文章。文章自体は難しくない。この問題が追加されていて、大問が一つ多くなり、テスト時間が延びた。

 大雑把な傾向として、情報把握能力、相手の立場や相手の理解が分かっているかというような一種のコミュニケーション能力や単発的な判断力を聞いているような気がした。まあ、現代文は、新学力観なら、こういう問題になるんだろうなという問題になっているというのが第一印象(A君B君C君の会話の中の空欄に適語をいれるとか)。難解な概念と格闘するとか、〇〇主義などという言葉が行きかう思想書とか、〇〇学入門的な学術的文章、芸術論、文芸評論などの分野は、この新傾向の聞き方とは相いれない部分があるので、出しくくなのではないかしら。実利文章中心の出題。

 以上から、印象にすぎないが、文型に求められているのは、深い思索が出来る(いい意味での)インテリではなく、会社で上手いプレゼンが出来て、会議でちゃんと意見を聞いて、理解することができ、かつ的確に意見を言える、国際的に通用する「できるビジネスマン」のイメージが、今回も最終目標のような気がする(これはITがスローガンだった森首相のころから変わらない)。
 この方向性は、すべての事柄を経済の再生に向けてシフトして、日本丸を沈まないようになんとかしようと躍起になっている日本の現況をそのまま反映しているのだろうし、そんな努力ももちろん大いに必要で、それ自体、全面的に否定するつもりはないのだけれど、そればっかりで染め上げようとすると、逆に沈む原因を作ってしまうような気がして心配である。

 古文のほうは、「源氏物語」の本文の違うのを二つを並べ、三つ目に校訂した古人がその部分に関して書いてある文章を載せるという、本文三つある出題。新傾向ではあるが、ちゃんと基本古語を絡ませてあるので、問題として奇抜ということはない。ただ、おそらく新テストでは文法をダイレクトに聞くような問題は敬遠されるのではないかしら。本文を一字一句深くやるのではなく、関連文章もしっかり教えて、広く押さえられる実力をつけさせないといけないのだろうねえと同僚と話した。
 ということは、今回の試行テスト。一見新しい感じもするが、センターで出題傾向が固定化し、それに合わせた授業をし始めた以前の、社会的背景を押さえたり、関連資料を色々読ませたりして、色々膨らませてやっていた大昔のやり方の戻ればいいという面もあるのかもしれない、というのがベテランん先生の意見としてあった。若い先生は新しく見えるが、ベテランは温故知新的に見える部分もある。それはそれで悪くない傾向のような気もする(つまり、新テストのいい面も確かにあるように思う)。

 ところで、この話を他教科の方に話したら、どの教科も似たり寄ったりの傾向だったらしい。地歴の人に話したら、そんな方式の問い方は地歴ではしょっちゅうやっているとのことで、国語までそんなことやるんですかという意見であった。理科も表からの読み取りなどは日ごろからよく使う。数学は、計算の前に国語的な能力がいる問題だったという。この場合も、説明文から、意図をくみ取り、なにをすべきかを考えないといけないという点で、新学力観に合致している。けれども、これも、いうなれば、計算前に間違った理解をしてしまう人が一部出るというレベルの話。こちらの考えている国語の実力とは違っているが、広く浅い意味での「国語力」は、逆にこれまで以上に必要になっているともいえる。

 以上、漠然としたイメージでしかないが、「金太郎飴」のような出題になってやしないかというのが今回の試行テストの個人的な感想。今後、教育自体がこの種の能力の伸長に躍起になるので、授業自体も教科が違っても同じようなことをやってしまって、単調になってしまうのではないかと心配する。それに、生徒は「国語って、こんなもんなんだ」と思って、技術的に対応するだけで、深く掘り下げなくなるのではないか。
 今後、こうした新学力観に合わせた教育が求められ、授業も大きく変化していることになるけれど、「そんなんでいいんかい?!」という思いが常に心に湧くので、意欲がわかず、どうにもこうにも、個人的には辛いことになりそうである。

 先に、この数十年で、国語教科書から「文学」的要素がどんどん消えていっていると指摘した(だって、当時は、近代短歌史、俳句史解説まで教科書本文としてあって、習ったし、教えもした)が、もう「文学的教養」なんて、本当に吹っ飛んでいきそうである。
 こうした傾向に合わせて、いずれ教科書も、図表やイラスト、写真が多用されたものになり、対応の「実践ワーク」みたいな副教材が必須になってくるだろうと推測される。こうした能力をつけるさせるには、作業ワークが一番の近道。

 こちらの勝手なイメージなのだが、こうした教育をしていると、表面上、社会に出てソツなく生きていくにはいいかもしれないが、内面の陶冶が十分できないので、「いい歳こいて、そんな軽はずみな事件起こして‥‥」みたいなことが乱発する世の中になるような気がする。
 ただ、その分、ご商売は国際的になって上手くいってV字回復することもあるかもしれないし、最近はさっさと予定変更するので、どうなるかは分からない。この種の聴き方はさっさとパターン化して行き詰まり、変えようという話がまたぞろ出ることも十分考えららる。
 国の教育の成果は、三十年後に国民の資質となってはっきり出る。三十年後がどうなっているか、不安でもあり、楽しみである。唯一の問題は、こちらがそこまで生きていない(泣)。

(以上、さらっと見た程度での感想で、かつ、教員との立ち話程度の取材で、全然、厳密ではない。そもそも推進派から見たら、ネガティブモード全開の意見に過ぎないと思われるだろうし。言い捨て御免)


by hiyorigeta | 2017-12-23 20:27 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きし、日々の生活をつづります。テーマは言葉・音楽・オーディオ・文具など。http://tanabe.easy-magic.com/


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