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金沢日和下駄~私のものぐさ日誌~

カテゴリ:観劇・映画( 21 )

大蔵映画見つけた


 年末、日活ロマンポルノ復活の新聞記事があり、地味に職場で話題が出た。日活が左前となり、ロマンポルノ路線に変更したのは、私がまだ未成年のころ。なので、初期作品は、全然、知らないが、全盛期の後半あたりからなら知っている。大学生時代、後学のため(?)と、最初に観に行った時のことはよく覚えている。新宿の大きな映画館。最初、空きがなく、立ってみていて、途中椅子席が空いて座れたくらいの大盛況。当時はそれだけ人が入っていたのだ。観客は大人ばかりでドキドキした覚えがある。もちろん、お約束通り、ほぼ十分に一度、そういうシーンはあったが、思ったより、ちゃんとした筋のちゃんとした話なのだなというのが、その時の第一印象。
 それ以来、夏の暑い時、クーラーがわりに旧作三本立てなんていうのもみたりした。ちょっとエロチックなラブコメディという言い方がぴったりの「桃尻娘」なんかは結構世間的にも話題になった覚えがある。そういえば、ポルノ界の聖子ちゃんなんて子もいたなあ。
 これは斬新な映像だとか、ちゃんと大人の気持ちを描いているなあとか、お話として心を動かされる話だったなあとか、映画としていいものがたくさんあって、そんな映画を撮った監督は後に名をあげていて、見ていた私もそうだろうなと思ったという話は昔書いた覚えがある。大人は大人として男女交渉を含め色々思っていることがあって、それを普通包み隠して描かない部分も、ちゃんと描いているだけと思えば、まさにそれは大人を描いているということになる。

 そうした日活にほかに大蔵映画というのがあって、これは、本当に低予算で志も低く、昭和の当時も古臭ささ満載であった。下宿先近くに上映館があったので、二十歳前、一度だけ見に行って、以後やめにした。若かったし、自分よりずっと年上の女性(つまりは、おばちゃんに見えた)が主人公の成人映画では、気持ち的に盛り上がれなかったということもあっただろうと、今思えば思う(苦笑)。
 数年前、ネットで、いまだに大蔵映画というのがあり、浅草に立派な専門上映館があり、フイルムで撮っているということを知った(ただ最近フイルムではなくなったそうである)。ポスターなども、あのころ場末の映画館に貼ってあったような昭和感満載のもので、内容も「団地妻」的なもので、まさに当時のままの雰囲気のようだ。 
このことをどうして知っているかといえば、その館のマスコットガールを務めていた星野ゆずという子がNegiccoファンだったからで、ネット検索で見つけて、ブログを読んでいたから。今はその子も急に姿を消して、もろもろ削除されてしまい、影さえほとんど残っていない。
 関係者は、昭和の文化を守ろう、火を消すなという意識でやっていて、ここまでくると、もう確かに文化の領域で、よくご商売として成り立っているなと思うし、観に行くお客もそんな気分でいくのだろう。一度観ただけの会社の映画だが、妙に応援気分になったことだった。今観たらどう思うかしらん?

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by hiyorigeta | 2016-12-23 20:30 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

映画「シン・ゴジラ」を観る

 八月の平日、体が空いた。暑い日中、家でクーラーをかけて、グダグダ過ごすくらいなら、映画がよいと、さっさと映画館に行く。選んだのは、「シン・ゴジラ」。怪獣ものを映画館で観るのは、もしかしたら、小さい頃以来かもしれない。モスラあたり以来。
 現在、興行収益50億円超えというし、YAHOOの映画感想欄だけでも、すでに一万件超の書き込みがあって、久々の大ヒット映画となっている。私が観た回は二十人くらいで、いつもより断然多い。
 鑑賞後、ネットの感想を大量に読んでしまったので、私が新規に言うようなことはないとは思いつつ、自分の覚えとして、いくつか。

 悪役スタンスで、敵怪獣が出てこないのは白黒のゴジラ第一作と同じ。「シン」は、だから「新・ゴジラ」というニュアンスなのだろう。「神」も掛けているのかもしれない。
 ゴジラを動く「核」と捉え、それにどう対処したかという日本政府の動きを中心に描く。だから、怪獣スペクタクル映画と言うより、「災害対策映画」。恋愛も家族愛もなし。冒頭部、巨大不明物体が川を遡上し、川が逆流するなど、東日本大震災で観た光景を踏まえていて、すぐにそういう映画と判る。
 今年3月、NHKが、現地本部がどう動いたのかの詳細なドキュメンタリー・ドラマをやっていたが、まったくそれと同じようであった。テレビでの現地責任者役の俳優が、今回は総理大臣役で出ていたというのも、その印象を強くしている。
 テレビドラマ同様、政府の対応は後手後手にまわり、初期防衛を逃しているし、会議会議で対応していく様子は、おそらく実際もこうした感じになるのだろうと思いながら日本人は観る。自衛隊の武器も現有のもの。まさにあの順番で破壊力が上がり、逆に言うと、あれ以上の兵器はないらしい。超現実的なのはゴジラだけという潔さ。
 自衛隊が協力しているのは後クレジットでも判る。自衛隊はかっこよく肯定的に描かれる。緊急時、政府や自衛隊はこういう対応をしますよということを国民に周知させるにはよい機会ととらえているのだろう。実際、自衛隊のポスターにゴジラが使われ、自衛官募集に一役買っているらしい。
 そうした意味で、この映画、政府提灯映画という気もするし、もちろん、政府を揶揄する反核映画という側面もあって、どうも作品の思想は、深く考えていくと、なかなか見えにくい映画のような気もする。

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by hiyorigeta | 2016-09-03 22:44 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

前進座「夢千代日記」を観る~置屋に集う人間模様~

 一九八〇年代の名作ドラマとして知られる早坂暁原作の舞台化。テレビでは吉永小百合の当たり役となった。再放送もあったが、残念ながら未見なので、観劇後、粗筋を調べた。設定や大筋はテレビのままだが、違う部分もある。台本の志村智雄によると四割はオリジナルということだった。(志村は演出、出演も兼ねる)
 一幕目は、満州の惨状と残留孤児の話題が大きく絡み、二幕目は体内被曝した主人公がヤクザの手引でヒロシマへ赴き自分たちが被爆した瞬間を再確認する話が中心となる。そのあたりに、妙に生なかたちで台詞に主義主張を盛り込んだので、そこはオリジナル部分だろうと推察できた。つまり「説明セリフ」によって台本作者が 顔を出してしまっている部分があったのは少々残念だった。また、ヤクザの流入、記憶喪失の男の話などもあって、少々話を盛り込みすぎのようである。上演時間も少々長い。
 舞台はもちろん夢千代が女将の置屋。芸者や旅回りの役者など総勢二十名もの出演者。この劇団では珍しく女性中心の芝居で、前進座は三味線や太鼓、踊りなど和事の藝ができるのを最大限に生かした芝居だという。そこはたしかにさすがで、今や贅沢の極み。
 先だって梅之助が亡くなった。スターがいなくなってきている前進座。世の観劇人口も減ってきている。若い世代にはヤクザとか置屋とか男と出奔とか、そういう世界自体なじみがなくなっている。そんなことも今やハードルとなる。これから正念場という気がした。是 非、うまく乗り切ってほしい。

 原作の早坂暁は、昭和四年生まれ。向田邦子と同い年である。老境だが存命。日本を代表する脚本家というのは知っていたが、それ以上の知識はなかったので、これもウイキを覗いてみると、他の代表作に、大昔のNHK時代劇「天下御免」があるという。あの頃、あのドラマは痛快で、毎週楽しみだった。飄々とした山口崇、存在感のあった林隆三(昨年死去)が印象深い。ああ、あんな斬新な作品を書いた人なのか、これで名が上がったというのは当然だと思った。現代の売れっ子三谷幸喜が、この「天下御免」のような台本を書きたいと思って脚本家になったということが書いてあったが、三谷の作風からして、すんなりと納得した。
 先日、向田邦子の本を読んで、 彼女のことを考えたばかりだったので、舞台とは言え、あの頃いろいろと出た秀作ドラマのひとつを観られてよかったという気持ちがある。 
 太田光は、向田邦子以降を評して「トレンディドラマと言われたもの以降のドラマしか知らない人達が増えていくほどに、ぼくはもどかしさは募る一方である」(「向田邦子の陽射し」)と述べているが、確かに今テレビドラマは、若い男女の「胸キュン」物語か、「あまちゃん」のようなライト感覚のものばかりである。小説などの原作を上手く料理する脚本家はそれなりにいるが、しっかり人間や社会を描くことができる、オリジナルを書ける台本作家はどんどん少なくなっている印象。
 もちろん、視聴率絶対主義や、不況ゆえ重いものを好まなくなった世相 も大いに関係しているとは思うが…… 。
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by hiyorigeta | 2016-02-20 20:51 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

「スター・ウォーズ」の新作を楽しむ

 先日、遅ればせながら十二月封切り「スター・ウォーズ~フォースの覚醒」を観る。さすがにロードショウ末期のため館内は祭日の昼間ながら閑散としていた。シリーズ全作を映画館で観ているので、見損ねると残念に思うだろうと、重い腰をあげた次第。
 最近は座席がうごくものもあるらしいが、職場の同僚が子供とチャレンジし、気持ち悪くなったとかで、普通の座席。彼女は遊園地のアトラクションに二時間も乗っていた感じという言い方をしていた。3Dも何だか画面が遠くにあるような感じに見えるので、これも普通の画面で。
 製作はディズニー社に移行。監督もルーカスではない。中身は大人気となったシリーズ初作のリメイク といってもいいほど旧作をなぞっている。敵側に皇帝・悪のジェダイ・旧独逸軍風将軍。酒場のシーン、ヨーダ相当の役(今度は女性)。旧作を踏まえていてニヤッとする台詞も多い。デススターもどきを破壊する流れも初作と同じ。少々同じすぎて結末が見え見えで、出来レースのような気分になるのが欠点。(ハン・ソロ(ハリソン・フォード)が死んでしまうのだけは意外だったが……。)
 よく出て来ているし、シリーズを一切知らない人でも充分楽しめる。チューバッカ、レイア姫(もう初老)などお馴染みキャラクターも出て来て、新三部作よりも旧三部作の世界観なので、古くからのファンも安心する。大ヒットは納得できるが、おそらく通しで観たら、あまりに同じ話のように感じて、逆に違和感を持つはずである。楽しいエンターテインメントだったが、新鮮さがないのがちょっと残念。
 初期三部作(第4~6作)が完結してからもう何十年もたつ。四十歳代後半より上の人は、もう説明無用の世界だが、実はあとから付け足しはじめた第1~3作の最初の回の時、若い世代がさっぱり知らないということに気がついた。それからまた十年近くたつ。有名だが、実は旧三部作をよく知らないという人が半数を超える。そういう人にも対応しないといけないし、当時の盛り上がりをよく知っている人にも対応が必要だし、なかなか最初から製作のハードルが高い映画で、大変だったと思う。私は充分楽しめたし、懐かしいし、悪い印象はない。
 映画レビューは悪評好評あい混じる。「商業主義的懐古趣 味」「年寄りが喜んでいるだけ」などの意見がアンチ派。今やCGの凄さなどでは驚きもしない若い世代の評はかなり辛めである。私は、これは大人も子供も楽しめるファンタジーなのであって、これから新たなファンになってくれるはずの小さな子供たちが手に汗握って観てくれたかという視点で考えればいいのではないかと思う。いくつもの謎は残されたまま、ちゃんと次回作に繋げる用意もされている。観客ゲットのためのご挨拶はこれで終了。次回作は過去作にひきずられずに色々展開していくはずである。
 音楽は巨匠ジョン・ウイリアムスのままであった。帰宅後調べると高齢ながらご存命で、今回も新作としてしっかりお仕事をされたらしい。エンドロールの部分などは恐らく新しい譜面ではないかと思う。
 タワーレコードが出している隔月雑誌の記事によると、よくコンサートで演奏されるオーケストラ譜と実際のサントラ音楽は楽器編成が違うのだという。映画の方は管楽器が大幅に増員された譜で、管がより煌びやかに響くようになっているそうだ。道理で演奏会のほうは大人しく聞こえると思っていた。私は彼指揮ボストン・ポップスのCDを持っているが、おそらく、あれはオーケストラ通常人員譜である。
 また、生粋のクラシック畑の人かと思っていたら、もともとジャズ畑の人というのも初めて知った。最初、昔の映画のような古風な楽団の音でという条件で彼に発注した時、彼が本当に応えられるのか監督は心配したというエピソードも紹介されていた。どうやらオーケストレーションのヘル プもいるらしい。
 電子音を多用しないのは当初からのお約束で、生楽器が強調された音は「活劇」のワクワク感をそそる大事な装置であるというのがこのシリーズのコンセプトである。確かに、あの壮大なテーマが奏でられるだけでファンはワクワクする。宇宙戦闘機のバトル、基地や船内での射撃戦、昔ながらのチャンバラ。まさに「活劇バラエティ」である。
 有料で観たのは、昨年のジブリの「思い出のマーニー」以来。地方都市の映画館では、ちょっとずらして行けばガラガラというのもだいたい判った。シルバー割引で、いつ行っても千円ちょっとなので、もっと行けばいいといつも思うことなのだが……。 
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by hiyorigeta | 2016-02-13 20:38 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

幹の会+リリック公演「王女メディア」を観る(市民劇場第317回公演)

 エウリピデス(紀元前480年頃~406年頃)作のギリシア悲劇。おそらくこれまで観た劇で最も古いものの一つではないかしら。これに較べたらシェークスピアなんて新しい新しい。
 梗概は以下の通り。王女メディアは夫イアソンと共に故郷コルキスを捨て今はコリントス暮らし。だが、コリントス王が自分の娘の婿としてメディアの夫を望み、失権回復のチャンスと夫はそれに乗ることにした。王から、メディアと子供たちの国外追放令が出たこともあり、彼女は激しく夫を恨み、ついには王とその娘を殺害、最後には我が子二人も手にかけるという何ともおどろおどろしい復讐劇。

 夫は、彼女の陰謀の助言に従い、二人の子供を残してくれるように新妻経由で王に頼むなど、彼なりによかれと思った動きはするものの、基本、身の安定をはかる男の身勝手以外の何ものでもなく、空しい言い訳に終始する。もちろん、捨てられた女として彼を許せるはずはなく、彼女は復讐の鬼と化し、腹をいためた子供を殺してまでも夫を精神的に追い詰めようとする。最後の場面は、せっかく上手くいきそうだった将来をすべてぶち壊され、悲嘆にくれる夫と、この、ほとんど怨霊となっている妻との対比で終わる。
 台詞は蜷川幸雄演出の時の詩人高橋睦郎のものを使用しているものと思われる。パンフには「修辞 高橋睦郎」となっている。台詞を聞くと、古典的な言葉を巧みに配して格調の高さを表 現していて、例えば、ギリシャ神々も「八百万の神」と表現する。そのため、我々は日本の伝統的な演劇を観ているような気分になる。それは演出も含めもちろん意図的な手法である。実際、ラストの場面、怨念の塊となって、子供たちの首を持って高いところから現れるシーンなど、ほとんど江戸時代の怪奇物語や歌舞伎そのままで、例の「玉梓が怨霊」などとと同じ世界が現出する。
 平幹二朗はもういいお歳で、舞台ではあまり動かなくてもよいようになっていたし、一部はテープの声で、出ずっぱり喋りっぱなしにならいように配慮されていた(ただ、アンコールでは、殊更、元気に駆け足を我々に見せたりしてはいたが……)。
 主役に動きの少ない分、取り巻き連中が右に左に控える場所を変えた り、長尺な布を使った演出などモダンな演出も取り込んで、単調さを回避させていた。
 彼の舞台で我々はシェークスピアをはじめ多くの古典劇を観ることができている。何度も色々な形で上演されている有名悲劇はともかく、おそらく「冬物語」なんて、彼の劇を観なかったら一生観ずに終わっていただろう。

 出演俳優は全員男性で、平はもちろん、取り巻く土地の女もみな男が男の声で演ずる。平自体も台詞回しは女言葉であるが、低い男の声はそのまま。その上、子供は子役ではなく、人形を使っていた。おそらく普通なら色々と違和感が残るところだが、台詞の修辞を理解しながら、古典的な形式の劇だと思いながら観ると、そうしたことは皆受け入れて観るので、奇異な感じは全然受けない。先月 観た歌舞伎でも、死んだ人が一時的に生き返って話をする。そうした破天荒もまったく気にならない。それと同じである。
 今や金沢市民劇場は二回の例会のみの団体となっている。今回、野々市会場がなく金沢会場二回。そのためか、観客は後ろ三分の二すべて空席となっていた。淋しい限り。(2015/12/21)

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by hiyorigeta | 2015-12-23 22:10 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

原節子逝去

 李香蘭に続き、戦中戦後期最大の人気女優原節子が亡くなった。李香蘭死去の時に年齢を調べたので、もう九十半ばであることは知っていた。
 小津安二郎の死と共に世間から遠ざかり、以後、外掃除をしているスクープ記事が出たくらいで、五十年以上、目立たない生活を貫き通した。政治家になった李香蘭とは、ある意味、対照的である。
 戦地に赴いた男たちで、特に思い人のいなかった連中は、彼女のブロマイドを持っていったというエピソードがあるくらいで、日本人離れした洋風の容姿は、まさに男性憧れの美人そのものであった。あの美貌に、当時の清楚なブラウス姿は実によく似合う。
 小津映画出演は彼女の芸能生活後期にあたり、結婚が早かったあの頃の常識では、そろそろ適齢期も後半といった頃。映画も最後のほうはそうした役柄が多かった。小津の死はまさに潮時と感じたのだろう。で、彼女は、永遠のアイコンとなった。
 先日の笹本恒子の写真を見ていても、視線はファッションや、背景の町並み、通行人の様子などにいく。私が生まれる少し前のものが多かったが、地続きで私の子供の頃の景色につながるので、懐かしい思いがしたのだが、今、小津の映画を観ても、同じ気持ちがする。ちょっと遡る故に尚更ピュアに当時の雰囲気のエッセンスみたいなものを醸し出していて、胸が苦しくなるくらいに懐かしい。
 李香蘭の時にも書いたが、彼女にドキドキした男性連中はもう死に絶えている。年上のキレイなお姉さんといった感じで見ていた世代がご長寿ご存命中といったところ。これだけの人気をたもった銀幕スターは以後いない。
 今日以降、彼女の追悼が色々なされるだろう。早すぎる引退の時の気持ちなんかの類推も。
 で、前から思っていたえらく即物的な類推をしたい。
 美人というのは絶妙な顔立ちのバランスで成り立っている。引退近くの映画になると、彼女にも微妙に美貌に衰えがみえる。日本人離れした目鼻立ちの大振りな顔なので、老いて顔の輪郭が変わっていくと、バランスが崩れて、器量がはっきり落ちていくタイプの顔なのではないかと私は思っていた。目細鉤鼻のお醤油顔は容色の衰えが目立たない。自分の顔である。彼女はそれに気づいていて、長く芸能人をやって人目にさらされ続けることを避けたかったのではないかしら。
 永遠の美しいお嬢さんのまま、隠遁することで、自ら進んで自らを定位させた彼女。長い長い五十年以上にわたる生活は、古典に出てくる出家した尼僧に似ている。あとは極楽浄土を願うようなもので、自らの物語を完結させるためには、ご長寿だったということは思いがけないことで、あまりに長すぎたと思っているかもしれない。若くして自分を止めた人生。彼女はこの五十年、何を思って生きていたのだろうか。
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by hiyorigeta | 2015-11-25 22:25 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

金沢市民劇場 第316回例会 こまつ座公演「父と暮せば」を観る 「戦後七十年の今だからこそ」

 ひさしぶりに観たこまつ座の芝居であった。一九九四年初演、すまけいの舞台は映像となっていて、昔、近くの図書館の小ホールで観た覚えがある。怪優の面目躍如、男優の個性際立つ台本だと思った覚えがある。すまから前田吟へ、それから辻萬長へ。彼は、今、こまつ座を支える屋台骨である。女優も梅沢昌代や斉藤とも子が演じ、ここのところは栗田桃子が演じている。蟹江敬三の娘である。
 去年、彼女は父を亡くしたので、この話と重なり、長く台本が開けなかったという。実生活では、三十歳過ぎごろから、父に平気で「~しちゃダメよ。」などと言っていたそうで、そんな父娘のやりとりを見て、辻が、役の二人の関係も「こうでなきゃいけないな」と思ったという。(「The座」84号)
 だからか、時に父が命令口調で、時に娘が親に意見をいうというような、どっちが上なのか判らないような親子関係の機微が、この二人の絡みから上手く表現されていたように思う。

 辻は、初めてやったときは、力が入りすぎていたといい、再演する中で「多少は力を抜いてやれるようになったのではないか」と語っているが、確かに、大昔観たすまの舞台に比べて、コミカルな部分が多く、重いテーマながら、ある部分、自身、大いに楽しんで、笑わせようとしている感じを受けた。

 テーマはシンプルで、娘の友人に対する申し訳なさ、父に対する申し訳なさと娘の心情が繰り返され、父の「幸せになれ」という願いに、ようやく心を開いて恋愛に向きあう、希望に満ちた結末で終わる。一時間半と短時間。たった二人だけの芝居ながら、だからこそすっきりと観ている者の心に入ってくる。
 芝居の中で語られる投下直後の悲惨な状況は、当時の証言や手記をうまく入れ込んである。親が瓦礫で身動きがとれず、迫る火の中で泣く泣く子がその場を去るというこの親子の状況は、「この子たちの夏」などでも取り上げられている有名なシーンである。娘が語る、防火水槽のところの死んでいる人の話も「夏の花」など、多く語られている。
 それに、父が娘の結婚を心配するという大枠は、もちろん「黒い雨」のオマージュで、井上らしく「父の幽霊」というフィクションによって、芝居としての軽妙さを加味し、重苦しさを救っている。
 娘を図書館勤務とした意味も、今回よく理解できた。若い学究との出会いのための設定というばかりでなく、彼女のやっている仕事こそ、生きている我々が今しなければいけない仕事なのだと作者は言いたいのだ。
 井上死して五年、すまけいは二年ほど前に。戦争や被爆体験者のほとんどがみまかり、それを伝えようとメッセージを発していた者たちもこの世から退場しつつある。
 では、今生きている者たちは……。(2015/09/26)
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by hiyorigeta | 2015-09-26 23:10 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

劇団青年座公演「ブンナよ木から下りてこい」を観る

 昨日、青年座の持ち芝居として有名な、彼らの代表作を磯村純の新演出で観る。演出家はこれで五代目という。背景はなにもなく、回り舞台を手動でゴロゴロまわす、新劇では定番の手法だったが、ちゃんと回り舞台の上が椎の木の上に見え、成功していた。
 生き物を襲う食物連鎖上位の悪役「鳶」は、実際には出てこず、丸い大きな鏡が降りてくることで表現していたが、どんなに訳知りのような口をきいていても、土壇場になると、自分より他の者を先に食べてくれと頼む罪深さを、「自分の心を映すもの」という象徴的表現として表したののだろう。そういった抽象的な演出も混ざっていて、一歩間違うと「お子様向け」で終わってしまう話は、ぐっと格調を高めていた。
椎の木の上で起こる弱肉強食の世界。その中で、死の順番を待つ生き物たちは、所詮「自分が大事」でしかないことに気づく。木の下では、今度は、人間の気まぐれで土蛙の生が脅かされる。上では自分も同じであると生を脅かされた時の卑怯さを思い知らされ、下では自分も傲慢な加害者でしかないと思い知らされる。実に判りやすく仏教的生命観を提示してくれていて、観る人の心を揺さぶる。実は今回初めて観たのだが、名作の誉れ高いのは宜なるかなと思ったことだった。状況は決して明るくないが、最後の場面では、生きることの意味を問うかたちで希望の灯を照らす。

 授業で出て来た鷲田清一の文章の中で、「垂直性のベクトル」が失われているというのがあった。これは、最近は人間同士の横のベクトルだけで判断していて、縦の、例えば神と人間とか、人間ではどうすることも出来ないものとの関係の視点が抜け落ちていると指摘していた。そこで、事前に、こういう話を生徒に聞いてみた。
 ラーメン屋のカウンターで、「いただきます」をしないで食べようとした彼氏を彼女がたしなめたところ、「俺は金を払って食べている、感謝の言葉を、店の人にいう必要はない」と答えたという。これはおかしいか、おかしくないか。
 これに、ある男子は「おかしくない」と答えた。典型的な横ベクトルの発想である。あの言葉は、誰に感謝しているというのか。
 もともと母親が子供に語って聞かせる目的で書かれたお話だそうだが、今の世の中、社会に出る前の、高校・大学あたりの若者層に、しっかり理解できていてほしいという気がした。

 役者ではアオダイショウ役の石母田史朗が、ねちっこくアクの強いキャラクターを思う存分表現していて、痛快であった。
 都合で、いつもの会場ではなく、平日のマチネ、金沢市内の会場で観た。客筋が違い、こちらも高齢化はしているものの、まだ、中年の家庭の主婦が中心。隣に座った専業主婦らしき方が、農薬を目の敵にしているけど、農薬播かなかったら、ちゃんと育たないのに……とか、次回例会のパンフを見て、井上ひさしって理屈っぽくて、台詞が長いし大嫌いとか、ブツブツと呟くのが面白かった。いちいち独特の視点で、もう恐いものなしの言いたい放題といったところ。
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by hiyorigeta | 2015-07-29 06:13 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

JPスタジオ公演「カシコギ」を観る

 先日、高校生対象の高文連文化教室として、この舞台を観る。
 韓国でベストセラーなったという小説(趙昌仁原作)の舞台化という。劇団自体、韓国人を中心として結成された日韓混合キャスト。
白血病の息子タウムの回復を願う収入の覚束ない父ホヨンは、自身癌に冒され、角膜売買で収入を得るところまで追い詰められる。最後には、離婚した収入の安定している母の元に行くようにいい、死んでいく。
 「もう、一人で生きていきたいのだよ。」と、息子に嘘をついてまで、子どものために身を引く父の心情は、判りやすく描かれ、これまで、子どもの立場でものを考えていた高校生たちには、離婚した者同士の、大人の気持ちなどもよく判り、感銘を受けたのではないかと思う。
 例によって決して贅沢な作りではないが、演出(平田康之)でうまく話を展開させていた。丁寧な舞台であった。ここのところ、文化教室の劇といえば、安直なものばかりだったので、子どもに劇を見せる立場としては一安心。
 途中、骨髄のドナーが日本にいるという話となって、骨髄バンクのPR話となる。骨髄バンクのPV(PRビデオ)にNegiccoが出ていて、数ヶ月前にサイトを覗いたことがあったので、骨髄バンクの話を次の日の授業で触れた。PR曲のビデオ「だいじなところ」も観ればいいよ、一見、アイドルソングそのものなんだけれど、途中から腰に手を当てたところが骨髄液をとるところだと、ビックリするくらいはっきり宣伝歌詞になっているよと、さりげなくPR。もちろんNegiccoのことには一切触れませんでした(笑)。
 「骨髄液はハードルが高いかもしれないけど、献血は簡単だよ、献血したことがある人?」と挙手させたけれど、一人だけだった。若い人の献血者が減っているとは聞いていたが、確かにそのようである。
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by hiyorigeta | 2015-06-19 21:53 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

劇団俳優座公演「春、忍び難きを」を観る

 百万石祭りは新幹線効果で近年では最高の人出だったという。百万石行列の次の日の昨日、午後、駅周辺にいたが、外国人を含め大勢の観光客で賑わっていた。音楽堂能楽ホールでの観劇が終わって午後七時前にバスターミナルでバスを待っていても、駅に吸い込まれていく人がが大勢いて、東京二時間半の威力を感じた。
 今回は「春、忍び難きを」(作・斉藤憐)という戦後の農地改革で苦悩する地主一族の物語。搾取される側から農地改革を肯定的に描くのは、ある意味、簡単だが、地主といえども、天候に左右されつつ、土に生きる「農」を支えている一員に違いはなく、先祖から受け継いだ土地を守り、子孫に伝えていくという農の基本発想の中で、何とかそれを死守したい男主人公の気持ちは、保守的ではあるが、よく理解出来る種類のものであった。勿論、搾取する側として旧態依然とした発想も、当然、あちこちで出てきて、近代的な三男にそれを批判されていたりはする。だが、そうして時代の波をかぶり、没落していく地主の立場を複合的に上手く表現していた。
 寒冷地である松本という風土ならではの問題もうまく語られていて、あの時代の農を支える女性の立場もうまく表現されていた。この点で、ちょっと名作舞台「荷車の唄」のような要素もあった。
 所々に入る笑いも深刻になりがちな物語を救っていて、最初、重いだけの話かと思っていた観客は、徐々に引き込まれ、この長尺な物語に見入っていたように思う。この話の流れでは、松代の天皇御座所遷移の件もおそらく触れられるだろうと思っていたら、案の定、出てきた。
 多少の文句があるとすれば、旧家の居間にしては、真っ直ぐな板壁で囲われているセットが、ちょっとお洒落な和モダンな景色に見えて、違和感があったのと、世代が一つ違う役のはずなのに、年齢が同じくらいにしか見えず、違和感があった点。親子が同年齢にしか見えないのは、演技で化ける以前に、配役の失敗である。
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by hiyorigeta | 2015-06-08 22:34 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きしたり日々の生活をつぶやいています。文字ばかりですがご容赦下さい。仕事がらみの話は話題が死んでから載せるようにしています。http://tanabe.easy-magic.com