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スッピン

 今やっている「紫式部日記」の文中に、「朝顔」とある。花の話ではなく、「朝起きがけの化粧していない顔」と訳すそうである。文字通り、朝の顔。これは知らなかった。
 つまりは、「スッピン」なのだが、これ、訳として生徒にこの言葉で示してよいか自信がなかったので辞書をくってみた。厚い辞書にはあったが、薄いほうの辞書にはなかった。「俗語」とあるから、どうも訳としては不適切で、却下。脚注通り訳すのが無難のようだ。
 「イマイチ」のように、明らかにそう書いたらまずいよというのは判るが、今回のように微妙なものもある。俗語だろう思っている言葉にも、時々、由緒のあるものもあって、なかなか難しい。
 古典の下調べに、古語辞典でなくて今回のように国語辞典をよくひくことが多い。
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by hiyorigeta | 2015-05-30 22:05 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

小説が難しいということ

 松井さんの講演の質問の時、「難しい表現を使う理由は何か」というものがあり、「私の本を読んだことがあるのですね」という受け答えの上で、「今の時代の読者にも判る範囲でその時代の人の言葉は使うようにしている。ことばと思想は一体で、その言葉でないとその時代の人の考え方は表現できない」と答えていた。
 おそらく、作者は大丈夫と思って書いた江戸言葉や比喩表現が、その高校生には難しいと思っての質問なのだろう。たぶん、彼女の小説、相応の年齢の人が読んだら、全然難しい表現でもなんでもないのだろう。
 こういうことはあり得ることである。想定した読者の文章読み取りレベルから外れた表現をすると、読者は難しく感じてしまうだろうし、かといって迎合もしたくない。小説家は、その狭間で表現を悩まねばならぬ。
 ネットに載っていた漱石「こころ」の感想に、漢詩の素養を下敷きに難解な言い回しをしたり、理屈を展開したりして、「観念小説」の域を出ていないのではないかというのがあった。
 「難解な言い回し」というのは、おそらく明治大正期の古い小説だからで、古めかしい表現に慣れていないせいのような気がするし、「観念小説」というのは、彼の小説は概して理屈っぽいという作風に関しての印象であろう。
 この小説は、実に気持ちが具体的に書いてあって、その時々の登場人物の気持ちがうまく説明されている。今の感覚からすると、ちょっとくだくだしいだけで、「観念」を弄んだものとはまったく言い難い。
 最近、読書は手間がかかるだけと敬遠する生徒が多い。たしかにエッセンスのみを抽出してあるわけでもなく、もどかしい部分も多いし、時間もかかる。その結果、ほとんど小説らしい小説を読んだこともないまま高校時代を通過する生徒が大量にでるようになった。
 先日も、ある生徒に聞いたら、高校に入って以来、読んだ本は部活のスポーツの技術書だけだと言っていた。せめてそのスポーツのスターが書いた本くらいは読んでいないのかと問うても、その種の本を読んだのは中学までで、本当に、まったく、きっぱりと、読んでいないということであった。
 能率とコスパを考えたら、読書にかかずらわっていては時間の無駄という結論になる。そんな人や読書が携帯小説どまりの人にとっては、「読むこと」の重要性をどれだけ松井氏が強調しても、声が頭の上を通過するだろうし、もはや「こころ」は、難解で観念的と映ってしまうことも想像に難くない。
 どうすればいいかの速攻解決薬はないが、取っつかなくては何ごとも始まらない。表現というカタマリは、当然の如く当初は取っつきにくいものである。その取っつきにくさを多少の苦労をしながら自分の力で克服していかないと、次のレベルには行かない。
 今の子が、本当に悲しいくらい何か小さな困難があるだけでポッキリ折れるのも、なんだか「まっさら」なまんまに見えるのも、つまりは、読書を含めた「経験」の不足が甚だしいから。
 
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by hiyorigeta | 2015-05-28 21:13 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

松井今朝子氏の高校生向け講演を聞く

存じ上げない方なので、経歴を調べる。「京都祇園の料亭の長女。早大文学部の演劇学科修士課程修了。松竹で歌舞伎に携わる。武智鉄二に師事」とあった。近年、時代小説で脚光を浴び、2007年に『吉原手引草』で直木賞。
このプロフィールでは、我々の世代は、「ああ、武智さんのお弟子さんか」ということになる。彼の演出は「武智歌舞伎」と呼ばれ、その残虐・耽美主義的表現で一時代を築いた。文学好きの間では、谷崎潤一郎作『恐怖時代』を血みどろ演出で上演して谷崎を感服させ、谷崎文学の表現者の一人として認識されている。二人は交友もあった。
 世間的には、のちに映画に進出し、監督として『白日夢』を撮り、愛染恭子と佐藤慶の絡みが本番だったとして話題になったあたりのことで名前を知っている人が多い。一九八八年死去とあるので、もう亡くなって四半世紀が過ぎている。
 彼女の話は、江戸の出版文化などを絡めながら、「見る」こと中心になってしまった現代の危うさに触れ、双方向的な「読むこと」の重要性を説く。
 最近の講演は、映像・画像を使ってのものばかりで、淡々とお話だけで一時間以上もたす講演は、高校生にとっては今や久しぶりの世界。映像に慣れてしまっている現代の若者は、まさに「見る」のが当たり前の世代で、暑い午睡にぴったりの時間帯、話が筋道だって脳裡に入らなかった生徒も多くいたはずである。
 そんな中、例えば、「ベトナム戦争終結に際し、写真が果たした役割も多かったではないか」という質問は、その時代を知っている大人も顔負けのもので、素晴らしいものであった。回答は、もちろん、それは認めるが、例えば、アラブの春の現状を考えると、全て見通せる映像は、熱しやすい反面、理論の成熟が足りず、結果的に良好なものにならないというものであった。
  武智鉄二との関わりや自身への影響、彼と作家との交流で印象に残ったものがないかなど、聞くと面白そうな質問は色々思い浮かんだが、特に親しく控えの部屋でアフターアワーの歓談をする立場にない。それに、武智さんはもう何十年も前の人である。ここで、それを持ち出しても詮無いし、面白がる人も、この職場は若い人だらけで、もういない。
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by hiyorigeta | 2015-05-27 18:44 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

大昔の万年筆カートリッジ見つけた

 昔、サントリーのラジオCMで知った「天使の分け前(Angel's share)」という言葉。ウィスキーなどが熟成の過程で水分やアルコール分が蒸発し、嵩が目減りすることをいう。減った分は天使がぶんどっていったというのだから、エンジェルは赤ちゃんの姿なのに、結構な酒飲みである。
嵩が減るというのなら、実は、万年筆のカートリッジも目減りする。三分の二くらいになったものは時々見かけるが、今日職場で見つけたのは、ほとんど液体分が残っていないもの。何年前のものなのだろう。万年筆に挿したら、数行書いて、また挿し替えねばならぬ。
 酒はそれだけ濃厚になるのだからいいのだけれど、インクは濃厚になったって、詰まりの元になるだけ。いいことなし。
 これって、いったい誰が上前をはねたというのだろうか?
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by hiyorigeta | 2015-05-23 18:40 | 身近な世界・文具・筆記具 | Trackback | Comments(0)

春菊が大量に

 先週は愚妻の実家から家庭菜園でできた春菊を大量にもらった。食べきれないほどという言い方があるが、そのくらいの大量。
 ところが、そもそ春菊を普段料理に使っていないので、料理法が判らない。まず、少量の牛肉や糸蒟蒻を買ってきて、すき焼きもどきを作り、大量に投入。もう鍋が隠れるくらい入れたのだが、思いの外、嵩が減る。これで、腐らせずに食べ切れるようだと少し安堵する。以後、翌朝、残り汁で、春菊大量入り饂飩、青々とした卵とじ、お浸しと立て続けに作って完食。思った以上に癖がなく美味しくいただいた。人生、こんなに春菊ばかりを食べたのは初めてである。
 今年の筍は、結局、二回食べただけで終わって しまった。少し淋しいが、表年の来年に期待しよう。
 葱などの野菜は昔ほど安くならず、高いまま。フルーツで少し安いものが出回っていて、少し贅沢に買ってみようかと思う今日この頃。
 えらく暑い三十度近くある日があるかと思えば、雨で寒かったりと、高下はあるが、それでも、今は窓を開けてちょうどいい季節。ビルの中でウロウロしている人生は、人という動物にとって、幸せなのだろうかと、パソコンの手をとめて、よく思う。
 
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by hiyorigeta | 2015-05-21 19:09 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

カセットデッキとヘッドホン

 前に触れた早送り巻き戻しが出来ない件、メーカーにメールしたところ、もう部品がないから修理不可であるという定型文の返事が来た。巻き戻す時は、今後、ラジカセなどを使ってせねばならないようである。
 カセットの音は、CDでダビングしたものは、思った以上に良好なレベル。エアチェックしたものは、さすがに音量を上げると辛いが、小さく流す程度なら問題ない。もっとテープが傷んでボロボロになっているのではないかと思ったが、そうした状態のものはないようで一安心であった。せいぜい、聴いてあげないといけない。
 新しく買ったハイレゾ対応を謳うソニー製のヘッドホン。いつも使っているステレオや寝 所のコンポにつないで聴いてみると、低音に振っていてボコボコとうるさい。結局、ウオークマンに挿して聴くのが一番相性がよい。手持ちウオークマンで視聴して、これを選んだのだし、それ用の機種だから、ある意味、当然の結果である。メインステレオ用で選んだら、別の選択肢になったかもしれない。
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by hiyorigeta | 2015-05-19 18:38 | 音楽・ジャズ・オーディオ | Trackback | Comments(0)

久しぶりの生け花展

 日曜日の午後、チケットを入手したので、他に見たいところもあり、武蔵が辻のデパート催事場で開催の六流派合同生け花展を観に出掛けた。正式には「第二十六回いしかわ四季の花協会展」。
 短い会期の、後期入れ替え後の二日目。生ものだけに入れ替えがあるので大変である。流派別に見ていく順路。流派の説明があり、作品が並ぶので、特色が判って素人にも勉強になる。使っている花の名もすべて書き出したプレートもつくので、愚妻と、どれがどの花なのか確認するのも楽しい。生け花界では有名な花のようだし、実際に生け花でよく見るが、なんという名前がしらないというものが結構あった。生け花っていうのは、敷居は低そうだけど、センス問われるので、実に難しそうだ。確かにこの枝は無理矢理でも曲げた方がアーティステッックだな、でもその発想に行き着くまでに結構な訓練が必要そうだなというのが素朴な感想。久しぶりに生け花展を観たのでえらく新鮮で面白かった。
 今や 超有名な近江町市場の向かいのデパートの一角が観光客用の土産コーナー「黒門小路」になったと聞いていて、そこも見学。薄暗くしてシックな印象の売り場。センスは抜群にいいが、市場口からの入り口があまり開放的でなく、市場の庶民性と、こちらの高級感が少々ミスマッチ。吉と出るか凶と出るか。
 
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by hiyorigeta | 2015-05-18 18:36 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

マリー・ローランサン展を観る

 淡い色調の女性を描くイメージのマリー・ローランサン。その作風の変化を、習作時代から並べた美術展を、金沢二十一世紀美術館1階ギャラリーAにて鑑賞。
 絵画学校時代の作品は、油絵の基礎に忠実という印象でしかないが、キュビズムに触れたあたりから、はっきりその時代の匂いがしてくる。私は、キュビズムからの脱出をはかりつつある時代が一番興味深かった。キュビズム特有の輪郭線が一部残り、具象としては意味のない装飾的なラインも中央を外れたところでは残っているものの、その上で、彼女独特のパステル調の淡い描き方も見られ、主義と個性が同居して模索している真っ最中というのが逆に新鮮で新しく見えた。
 大人気となった以降は、まさに彼女調のものだが、晩年は、色彩が明確になって煌びやかになり、これは賛否があるのも当然という変化があったようだ。盛りの時のイメージだけで、この画家はこうした作風と決めてしまってはいけないという典型的な感想。

 同館で入場無料の現代アート展「こうさくてん パンドーラ」をやっていたので、それも観た。台湾や日本の芸術家、計二十八人の合同展。職業も学生やらアニメ演出家やら霊媒師(!)やら僧職やら。金沢大学の先生が窓口になっているようで、今回が二十五回目という。
 楽しい発想、ユニークなものばかり。特に台湾のある人は、水墨画中の動物が彩色されたパンダだったりと、「伝統」を使いながら、うまく現代アート化していて、東洋のアーティストである根っこを感じ、思わず、「そういう手があったか、巧い。」と唸った。
 現代アートは、ギミックに溢れ楽しいが、単なるギミックで終わるかどうかは、その作品に込められた文明批評など「思想」による。訳の判るものもあり、「ふうん。それで?」というものもあり。それにしても多彩なメンバー達である。
 出かけると、こうした思いがけない目の楽しみに出会える。今年はもっと出かけないと……。
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by hiyorigeta | 2015-05-17 06:02 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

同じような文章ばかりでいいのかしら


 この商売をやっていると、教科書や問題集に載っている評論に、その折々の流行が反映されることを実感する。記号論・言語論は相変わらずだが、近年は、身体論が入試などに頻出し、何だか聞いたことのある話ばかりを読まされることになる。特に、前提となる前半部分などは、もう同工異曲でおんなじ話である。
 今予習中の文章も、話題はファッション。中身は身体論である。教育に使う文章のジャンルにバラエティがなくなってきて、画一化を感じる。
 そんな中、今年の大阪大学は、音楽評論が出た。それも、クラシック・レコード・ファンが読むような雑誌に書かれてあって丁度いいという感じのマニアックな部分もある。フェルトベングラーがどうのとかあるので、かなりのお歳の人か、古録音趣味の人でないと、実体験的・実感的には判らない世界。
 でも、それでよい。受験生は困っただろうが、同傾向の文章ばっかりやって、それで、「読めています」というのでは、受験に対応したというだけで、本当の力とは言えない。私はこの出題を大変好意的に受けとった。
 大上段にかまえた正統派哲学やこうした芸術論でもいいし、ポップなもの、サブカル物などなどでもいい。意外なジャンルや、逆に古色蒼然たるものなど、幅広い出題を大学側・教科書出版側には期待したい。

 文型生徒の興味関心も、今や「グローバル」「国際」中心で、教育もその方向で推し進められている。反面、本当の意味での歴史観・世界観を構築するような教養主義はとっくにどこかに飛んでいってしまっている。
 「国際」に追従する人材は輩出するだろうが、本当の意味で、根っこのある国際感覚に優れた智者の層は薄くなり、日本の行く末は、その場その場のフィーリング主義でやっていくようになるのではないかねえと、国語科や社会科の関係者が集まるとよくそんな話が出る。
 英語の先生でさえ、今の「国際」は「英語で外国人と仕事で渡りあえることができればそれでいい」みたいな臭いがして、違和感があるそうで、みんな思っているのだ。
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by hiyorigeta | 2015-05-15 07:01 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

本が高い

 先日、職場の図書購入希望調査があったので、書店を巡り、希望図書をリストアップした。自分用ではないので、選ぶ視点が違う。そこが新鮮だった。日頃、行かないコーナーへ行き、勉強になる上に生徒の食指が動きそうな本を探す。
 帰宅後、ネットでメモを見ながら、リスト書類に記入する。その時、一冊一冊の本が高いのに驚く。普通の厚さの新書で九百円近い。ちょっと厚いと千円を超える。単行本も平気で二千円を越す。まとめてリストアップするので、尚更、それに気がつく。
 これでは子供たちが真面目な本を自腹で買おうという気はなくなると思った。
 中年以降の家での過ごし方の心構えを説いている、イメージ写真入り、活字も大きめの本を買ったが、当然、図書カードが二枚手元からなくなった。
 家でお気軽に、生活関連の雑読書をするのも、今や贅沢の極みである。

 後日、書店の外交さんにその話をしたら、「「高いから買わない、買わないから高くなる」の悪循環を起こしています」とのこと。ダウンロードの普及もあり、業界関係者頭をひねって考えているのだが、妙案は浮かばないという。
 外交さんと二人、長嘆息した。
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by hiyorigeta | 2015-05-13 22:59 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きしたり、日々の生活や趣味をつぶやいたりするブログです。アップが日付順でないことがあり、また、文字ばかりですが、ご容赦下さい。http://tanabe.easy-magic.com


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