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そろそろ開業一周年

 日本海側の美味しい魚として「のどぐろ」がある。ここ金沢でも、この魚を食べに来る観光客もたくさんいる。高級魚としてかなりの額。
 しかし、のどぐろって二十年ほど前にはこんなに有名じゃなかった。そもそも「あかむつ」である。異常だなと思っていたら、基準より小さな体長のものも獲っていて、乱獲の危険性があるとのこと。このままだとどこかで一挙にいなくなるかもしれないそうである。
 地方の美味しいものが有名になるのはいいことだが、それで秋田のハタハタなど一気に獲れなくなった例もすでにあるそうだ。

 先日、駅の複合ビルに行ったところ、飲食店がそろそろ開店しはじめた十一時すぎで回転寿司店だけが長蛇の列になっていた。お昼真っ最中ならまだしも、昼はだいぶ先でこういう状態。
 この店、近所にもあるごく普通の回転寿司店なのに、本当に異常である。
 ちなみに、この近所の店のほうに、久しぶりに行ったら、荒天だったせいでさすがにガラガラだった。ただ、メニューを見たら、汁物が倍額(!)に値上がりしていて唖然。これでは地元民が離れる。

 去年一番心配していた「金沢おでん」。この冬、地元タウン誌でも、かなりマイナーな店まで総ざらいして紹介してあった。先日の地方新聞にも 四頁にわたって特集されてあったりして、地元メディア自体も地元向けに煽っているかのような印象である。まあ、観光客に聞かれてもすぐに答えられるからという利便性を考えた上での情報という気もするが……。
 実際、金沢に観光に来た人のブログを読むと、某おでん店が超満員で、ネタがほとんど売り切れていた上に、主人が対応に追われて機嫌が悪く、嫌な気分を味わったとのこと。起こりそうなことである。
 そろそろ新幹線一周年。四季ごとの問題点も揃った。客商売の店は好景気に沸いているが、二年目からが正念場。

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by hiyorigeta | 2016-02-27 19:23 | 石川・金沢話題 | Trackback | Comments(0)

新社会人報告

 5年前に担任をした女生徒の一人が、いよいよ今春より社会人となるからといって挨拶に来た。一年間の留学経験もあり、今度、国際的な活躍も期待できる法人に就職するという。小一時間ほどこれまでの生活や今後の抱負、勤務までのあいだに計画している旅の話などで盛り上がった。もう五年前のお付き合いなのに、わざわざ来校し報告してくれて、えらい子(立派な子のこと)(もう「子」というのは失礼レベル)である。
 当時、進路選びで、二つのうちのどちらにするか悩んでいた。私は、せっかく勉強するのだから、自分が勉強して楽しいと思える分野を選べと助言した。今回の就職先は、その二つの興味関心が両方生かせるところで、「落としどころとしていいチョイスではないか」と述べたところ、彼女自身そう思っているということだった。自分をよく理解していて自分にあったところをちゃんと見つけてきていることに感心。
 みんながみんなこうした先を見越した進路選びができている訳ではない。本人はそれでいいと思っているが、端からみると全然合ってないと思える進路希望も多い。
 後で考えたら、親御さん(特に男親)としては、娘さんがどんどん遠くに行ってしまう感じを味わっていて、今、少々哀しい気持ちも湧いているのではないかしら。子が親元にいて、孫を抱いて……という世界とは違うところに娘が行きつつある。親は、どこかでこの子の人生はそういう路線だと自分を納得させなければならない。
 そう思うと、出来る大人に成長した子を持つ親は、贅沢な悩みだけど、どこかで諦める部分があって、淋しいこともあるのではないかと思い至る。
 いよいよ後一ヶ月で社会人。期待しています。大きく羽ばたいていっておくれ。
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by hiyorigeta | 2016-02-26 19:10 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)
 向田和子にとって姉の邦子は九歳も年上ゆえに、べったりな関係ではなかったようだが、逆にそれだからこそ尊敬の対象であり、自分の人生の指針を与えてくれた、かけがえのない存在だったようだ。
 一九九九年に出版された「向田邦子の青春」(文春nesco)は、姉の写真と思い出話とで編んだハードカバー本。だから、副題は「写真とエッセイで綴る姉の素顔」。
 本には邦子の二十歳代の写真がたくさん掲載されているが、その多くが、まるでファッション・モデルのようにポーズをとっている。映画雑誌の編集者という立場上、自身もスターの写真をカメラに収めたりしていたから、自然に写る際のポーズを意識していたのだろう。写真自体も素人離れした出来映えのものが多い。写真のプロも近くにいたし、仕事柄、詳しい人も多かったのだろう。彼女はライカも使っていたようだ。背景がしっかりぼけた、まるでブロマイドのような写真もある。こんなに芸能人のような格好いい写真が沢山ある素人さんは、ほとんどいないはずである。
 向田邦子は昭和四年生まれ。我々の親世代である。生きていれば今八十後半。だから、その服装は、私が幼児だった頃の大人の女性がしていた種類のもので、それのとびきりセンスのよい版である。お洒落で颯爽としていて、彼女が、本当に最先端をいっていた「職業婦人」であったことがわかる。
 縫い物が得意で、妹たちのものも一夜にして縫い上げたらしい。本文によると、彼女の服は、そうしたお手製のものや、お気に入りの仕立て屋に注文したオーダーメイドのものが多いという。「仕立て屋を使うってお洒落だね。」と私が愚妻に言ったら、愚妻は「当時は、今のようにずらっと吊り下げが並ぶ方が珍しいはず。」とのこと。確かにマネキンが着ている洋服を見て、こういうのをと注文してつくってもらっていた。そうだった。そうして、お気に入りの自分にぴったりな服を大事につかった。使わなくなった服も布地を別のものにリフォームして再生する。そんな話もこの本に出てくる。

 日本は終戦をもってゼロ歳児としてスタートした。戦後日本の青春期は、だから昭和30~40年代。日本が伸び盛りだったころ、時代自体がが青春だった、仕事をもつ女性の生き方も、まさにこの時代に定着しはじめたのである。
 この本には、楽しそうな社内旅行や、仕事仲間とのお出かけ写真が多く掲載されている。仲良く職場で写っている写真も。そもそも、今、職場で楽しそうにしている写真を撮るという雰囲気があるだろうか。今の時代よりも家族的な雰囲気の中、楽しみながら仕事をしていた時代だったのだなと思う。
 彼女の死は、飛行機の空中分解。昭和五十六年の夏のことであった。私は、夕方六時半からのTBS系番組「JNNニュースコープ」の入江徳郎(あるいは古谷綱正だったか)キャスターのニュースで見た覚えがある。その時は断言ではなく、向田が乗っているかもしれないというようなニュアンスだった。脚本家として名声を博し、前年には小説家として直木賞も受賞したばかり。盛りの時期の突然の死だったので、世間は本当に驚いた。
 姉は今考えると戦前生まれらしい古風な一面があった……と 妹の文にあるが、私もおそらくそうだと思う。結婚をせずに生涯を仕事に捧げた人だったが、家族としての繋がりを大事にする古い世界への愛着が強くある。決して進取だけの人ではなかった。
 自分の還暦を期に出版してから既に十七年。和子は、今、七十歳代後半で存命。ただ、邦子がPRして多くの役者や文人が集った和子の小料理屋「ままや」は、もうとっくに閉店しているようだ。
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by hiyorigeta | 2016-02-25 22:05 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)

歌詞を読む

 アイドルネッサンスがシングルとして出した「FUNNY BUNNY」(作詞 山中さわお)。MVを観ていて印象的な楽曲なので、サビの部分はすぐ覚えた。元々the pillowsというグループの曲だという。エルレガーデンというグループもハードロック調にカバーしていて、そちらの方も男っぽくて格好いい。ユーチューブの画面に歌詞が出て来て、それで歌詞の意味をとろうとしたら、結構、抽象的な歌詞だと気づいた。そこで我々夫婦で意見交換をしながら意味を取った。以下、おそらくこうだろうという老夫婦の歌詞解説。

 まず、タイトル。「FUNNY BUNNY」は、「面白いウサギちゃん」でいいのかしら? 彼が彼女のことをそう言っているのだろう。この歌、男の子から女の子へ向けての歌である。

「王様の声に逆らってばれちゃった夜 キミは笑っていた」
 王様は親など権威的なもの象徴。彼女は目立たないようにしていたが、逆らっていたことがばれて、でも、心折れることもなく、アッケラカンと笑っていた。進路や将来の希望とかいうことに関してかな?「男が」ともとれるが、後の展開から考えて彼女のことでしょう。(ネットで当時キングレコード所属だったので、その反逆では?というのがあって笑った。)

「オーロラにさわれる丘の上 両手を伸ばして僕を誘っていた」
 オーロラは希望や将来の象徴。それが触れるような近さ に見える。希望はすぐそこ。空に手を伸ばしている彼女。僕をおいでおいでと誘った訳ではなく、そのポーズは魅惑的で、まるで僕を誘っているかのようだといっている(と思う)。

「ほどけてバラバラになったビーズ キレイだねって夜空にプレゼント」
 主語がなく、ここが一番判らない。プレゼントというから彼が彼女へだろうと、彼がビーズを放り投げたと解釈したら、男の人ってビーズ持っている? と愚妻からダメだしがあった。夜の闇にキラキラとしたイメージが散らばる。彼女は願いをこめてビーズを放り投げたが、それは夜空にプレゼントをしたかのようだった。というのが妥当か。
 あるいは、このビーズは夜空にきらめく星のことを象徴している。この星々をあなたへのプレセントにしようという意味だともとれる。「夜空に」の「に」は、この場合、贈答する相手ではなく、「夜空にある」「夜空からの」という程度の意味? 
 ここは、ほかにもいろいろ解釈できるところで、はっきりしません。

「道化師は素顔を見せないで 冗談みたいにある日いなくなった」
 道化師はFUNNY BUNNYである彼女本人のこと。彼女はおどけたまま本心を僕に明かさないで、何も言わず僕から去ってしまった。

「世界は 今日も簡単そうに回る そのスピードで 涙も乾くけど」
 毎日は何もなかったかのように繰り返される。その月日の経過の中で、彼女がいなくなった深い悲しみも、あっと言う間に遠のいていくけれど、

「君の夢が叶うのは誰かのおかげじゃないぜ 風の強い日を選んで走ってきた」サビ(何度も繰り返し)
 君の夢が叶うとしたら、それは誰のせいでもなく、貴方自身のおかげだよ。貴方はわざわざ逆境を選んで努力してきたではないか。

「今ごろどこでどうしてるのかな 目に浮かぶ 照れた後ろ姿に会いたいな」
 ここは解説不要ですよね。素直な気持ち。彼女はファニーな照れ屋さんだったのだ。

「飛べなくても不安じゃない 地面は続いてるんだ 好きな場所へ行こう キミならそれができる」
 一気に飛躍しようとして出来なくても不安がらなくてもいい。飛ぶのではなく、地に足を付けて一歩一歩あゆんで、好きな場所へたどり着ければいいんだ。君はそれができる人なんだから。

 これだけ理解するのに何回も聴きました。悪魔とか魔術師とか、一見難解だったのですが、そうでもなかった。日本の若者バンドの曲をちゃんと読みこんだのは初めてではないかと思います。男から去って自分の希望へ進んでいった彼女への、男側からの応援ソング。といったところですかね。男の子としてちょっぴり切ない気持ち。
 男の歌を女性アイドルが歌うというのは変な感じはしません。アイルネ版はサビを石野理子のソロボーカルで冒頭にも配して、印象を強めています。

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by hiyorigeta | 2016-02-24 21:53 | 音楽・ジャズ・オーディオ | Trackback | Comments(0)

道草の効用

 堀辰雄の短編「墓畔の家」は、近所のお寺探検をする子供たちの話である。奧の小家に美しい婦人がいることに驚いたり、追いかけてきた寺の爺たちをはやし立てる子供の行動が生き生きと描かれている。そうそう、子供は知らない人の家の奧に勝手に入っていって大人に怒られるものである。
 発達心理学的に言えば、子供たちが徒党を組んでヤンチャをする時代を「ギャング・エイジ」という。年の差があったり男女も混合していたりもする。その中には、ボスもできれば家来もできる。しかし、それが人間関係を築く上で必要な経験とされる。
 義妹が最近の幼稚園の話をしてくれたなかで、気になった話があった。行き帰り、親は子供を幼稚園の玄関 に待機する先生にしっかり送り届けないといけないそうで、帰りも子供は勝手に帰れない。それはもうしっかりしている年長組もそうであるらしい。ある親は、幼稚園のほんの目と鼻の先に家があるにも関わらず、子供を送らなかったといって先生から怒られたという。
 管理上、どこからどこまで子供に責任を持つか、明確にしておきたいという園側の考えはよく判る。責任問題になるからである。

 自分の子供の頃はどうだったのだろうと考えてみると、保育園のころは確かに親に送り迎えされていたが、幼稚園年長クラスくらになれば、家が近い友だちと一緒に帰っていた覚えがある。私の通っていた幼稚園はそれなりに遠かったので、大通りを渡ったら、すぐに住宅地の小道に入って、その道を長く歩 いた。家と家との間に入り、ここを通れば近道できるというような子供しか通れない隙間道を見つけて悦に入ったりした。玄関先の植え込みにカマキリの泡々な卵を見つけたり、木の枝そっくりに擬態する棒のような虫がいることを発見したりした。それが動いた時にはビックリしたものだ。今から考えると地理的興味であり自然観察で、つまりは学問的好奇心の端緒。
 親は車などに乗せてまっすぐ家に帰る。子供の寄り道に長々付き合う親はいない。どうやら、大人は全然悪気がないまま、子供たちから「道草」を取り上げ、人間として大事な芽を摘んでいるようなのである。
 対策は思い浮かばない。できるだけ行き帰りは子供とのコミュニケーションの場であると思ってたくさんしゃべり、子供の寄り 道を急かさないように気を配る意識をもってもらうくらいしかないが、共稼ぎで綱渡りで子供の送り迎えをしている夫婦にとっては、判っているけどできないというのが実際であろう。
 今の子供たちは本当に可哀想である。
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by hiyorigeta | 2016-02-23 19:34 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

SNSで観るアイドル

 新潟のご当地アイドルNegiccoに興味をもった理由として、その苦労の歴史を抜きにしては語れない。今の世、ネットに大量に映像があって、スーパーの催事場で地道に営業しているところから、ずっとその歴史を辿ることができる。昨年は日比谷野音、目指すは日本武道館。苦節十三年(長!!)。
 そうした歴史は多くのグループが味わっている。「AKBに有らずんばアイドルにあらず」の風潮の中、非AKBでスタートすること自体、すでに大ハンデである。
 そのうちのひとつ、「ベイビーレイズJAPN」は、中でも、しっかりした事務所の所属、メジャー・レコード会社からの発売。売れっ子アイドルが先輩としてPR役をつとめるという恵まれたスター トを切った。最初はMCや対応も上手くなく、それを練習する映像が沢山アップされている。踊りの下手な子はその練習で泣いていたりする。そうして、徐々に自信にみちたパフォーマンスができるようになっていく。映像もしっかり編集されており、人気連ドラ「あまちゃん」がらみのスマッシュ・ヒットもある。Negiccoファンから見ると羨ましい限りのサポート。それでも武道館は半分しか埋まらない。最近は、幼さが影を潜め、徐々に完成された大人のユニットを感じさせる。
 と、知ったかぶりで書いているが、こうした各シーンを、ネットサーフィン数日で、さっさと追体験でき、ベテラン・ファン面できてしまうところが現代的状況である。
 もうひとつ、「アイドルネッサンス」。ソニー・エンタメ所属という恵まれたスタッフ。中高生で初々しい 。リリースも順調。先月、HNKの番組に初めて出た。映像をみると、初めての経験を、中高生ノリでキャアキャアいいながらこなして身につけている真っ最中とった感じ。自分たちのMVを初めて観て感激している様子など、細かい舞台裏が、逐一、映像で配信されている。
 こうしたネット環境を利用した宣伝浸透の仕方は、二〇〇〇年あたりから本格化したそうで、アイドルは「SNS利用型アイドル」に変質したとアイドル論に指摘されている。例の「会いに行けるアイドル」というのも、この身近さの延長線上で考えられた仕掛けである。

 アイドル曲を聴いて思うのは、正直、曲自体は大したことのないものが多いということ。大抵は勢いとダンスの振付でなんとかもっていて、音楽としてじっくり聞くレベルとは言い難い。でも、ウェブで、こうした苦労の現場の映像や普段のおしゃべりを聞いているうちに、一人一人のことが判りはじめ、ご贔屓が出来て……という流れで、だんだん好きになる。夜、そうした映像を次々と観ていると、愚妻もおこぼれで聞いていて、二人で、結局、こうした「成長物語」 に、ファンは一緒に付き合っていきたいと思うのだろうねえという話になった。悔しんだり、泣いたり、笑ったり。彼女らと時を共有したい気持ち。逆に言うと、成長が止まった段階でファンは他のアイドルに移る。そんな「泳ぐのを辞めると死んでしまうマグロ」のような存在がアイドルなのだろう。
 だから、彼女たちが一生懸命やっている姿がなんと言っても大事で、映像は最重要、音楽自体の重要度はそれより少し落ちることになる。とすると、特に、はまった訳でもない一般人は、曲の善し悪しの第一印象と見た目で判断するから、大概はメディア露出の程度で決まってしまって、ネットレベルでは、何時までたっても、はまった人向けの「観る人が観る」というレベルから脱出できず、広がらないという悪循環に陥ることになる。
 また、時にいい曲を得て、これでビックになれるだろうとファンは期待しても、現状、若者音楽番組の壊滅的状況から、メディア発表の場があまりに少ない。例えば、若者の音楽を紹介するNHKの「ミュージック・ジャパン」は、誰も起きてない日曜深夜枠で、それもこの三月で終了である。
 こうして巨大で露出過多のAKBの残り枠を非AKBが分け合っているだけで、何時までたっても芽が出ない。これは、たとえると、電波が二波あっても、ちょっとでも強い電波が勝利し、片方を極端に押さえつけてほどんど聞こえなくするという「電波の抑圧効果」みたいだと思う。AKB、桃クロ、モー娘。以外、あれだけの大量にアイドル集団がいるのに、国民レベルになったグループはない(に等しい)。解散してしまった「ベリーズ工房」や「アイドリング」など、この世界では有名ユニットだったが、一般人無作為抽出百人でいったい何人の人が知っているのだろう。

 ただ、曲が今ひとつのグループが多い中、アイドルネッサンスの曲は、古い楽曲をリニューアルするコンセプトなので、懐かしいもの(例えば「初恋」)もあり、知らない曲も良い曲(例えば「You」「Funny Bunny」)が多くて、オジサンでも大丈夫であった。何度聴いても楽しめると見極めて、Negicco以外で初のアイドル・フルアルバムを予約することにした。ポチリ。
 このオジサン、何やっているのだろうとご心配の向きがあるやもしれぬ。だけど、このグループの曲チョイスのおかげで、全然知らなかった、ここ三十年のJ-POPの名曲を沢山知ることができて、そのあたりに、私としては「前進感」がある。ジャズばかり買っていて、リサーチしていなかった懐かしの八十年代~九十年代の洋楽を今買い足しているのと同じ感覚である。
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by hiyorigeta | 2016-02-22 18:30 | 音楽・ジャズ・オーディオ | Trackback | Comments(0)

神近市子という人

 大杉栄のことについて聞かれたが、詳しくないので、WEBで検索して概略を知った。その方の記憶によると「女性関係が激しい人」ということだったが、確かに、妻、愛人、新しい愛人と、二股ならぬ三股になっていた。
 新しい愛人の名は伊藤野枝(いとうのえ)。「青鞜」メンバーでアナキスト、元彼はダダイストの辻潤。結婚制度否定の先進的な考えを持ち、関東大震災後、大杉栄と共に惨殺された、女性解放運動史に名が残る人(二十八歳没)。反政府の有名人の惨殺ということで大ニュースになり、事件は「甘粕事件」という名までついている。起こした方は、後有名になる満州の黒幕、甘粕正彦大尉。
 男を寝取られたほうの愛人は神近市子(か みちかいちこ)。伊藤を恨み、大杉を切りつけるという事件を起こし(日蔭茶屋事件)、入獄(刑期二年)している。
 この名前を見て驚いた。この方、戦後は社会党の国会議員となって活躍した人である。評論家としても名を成し、当時、世に知らぬ人なき有名人である。先日観た、百歳を越えて現役の女流カメラマン笹本恒子の写真展で、当時の著名女性を撮ったシリーズの中に彼女もいたはずである。この人も「青鞜」出身。日本女性解放運動創生期の次の世代の代表的存在。
 この人、谷崎が「鍵」を書いた時、夫婦の「性」を冒涜するものとして国会でこの小説を取り上げて、こういう芸術ぶったエロ小説を放置するのはけしからんと政府を追及した人でもある。経歴をみると、この頃は売春防止法 制定に尽力していた。妻は本来対等の立場のはずだが、この小説では夫の「性の道具」になっていると感じ、敏感に反応したのだろう。
 私は、こうした昭和三十年前後の彼女の思想的立場しか知らなかったので、若い頃、こうしたドラステックな生き方をしていたことに驚いた。宇野千代などと同様、情熱の人だったのである。
 ウィキペディアの文章には、次のような記述があった。
「大杉の「自由恋愛論」に賛同した時代と、事件の反省から、出獄後の中産階級的道徳へ回帰した時代とで思想的断絶が大きく」云々。
 私が知っている彼女は、まさに中産階級的倫理観から発言をする人であった。
 こうした劇的な変遷を経た女性解放家から批判され、話を「国会の場」という大事(おおごと)にされてしまった当の谷崎は、どんな思いで、新聞の報道や論説を見ていたのだろう。戦後、性に開明的な風潮の中、このあたりまで書いても問題ないと判断した谷崎であったが、それを追求する女性が、ガチガチの保守倫理主義者ではなく、昔、自由恋愛の最先端をいっていた活動家であったことを、どう思っていたのだろう。あれだけのスキャンダル、谷崎自身が知らないはずはない。結局、 谷崎は当時巻き起こった様々な「鍵」論争には一切加わらず、沈黙を守った。
 彼女は、晩年、勲二等瑞宝章を受けている。政治家を五期やっていたから、叙勲は慣行的なものだが、後半生は、体制と折り合いをつけて生きていった人という印象はぬぐえない。だが、おそらく、表面的には変遷したと見える生き方や思想のどこかに、芯とか原動力とかになるものがあったはずである。それは一体なんだったのだろう。
 それは、もしかしたら、自分よりも余程先進的で性にも奔放だった、自分よりも七歳ほど若く、かつ「青鞜」の中心にいた伊藤野枝への終生の恨みではなかったかという気もするが、もちろん、ゲスの勘ぐりかもしれない。
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by hiyorigeta | 2016-02-21 20:52 | 文学・ことば | Trackback | Comments(0)
 一九八〇年代の名作ドラマとして知られる早坂暁原作の舞台化。テレビでは吉永小百合の当たり役となった。再放送もあったが、残念ながら未見なので、観劇後、粗筋を調べた。設定や大筋はテレビのままだが、違う部分もある。台本の志村智雄によると四割はオリジナルということだった。(志村は演出、出演も兼ねる)
 一幕目は、満州の惨状と残留孤児の話題が大きく絡み、二幕目は体内被曝した主人公がヤクザの手引でヒロシマへ赴き自分たちが被爆した瞬間を再確認する話が中心となる。そのあたりに、妙に生なかたちで台詞に主義主張を盛り込んだので、そこはオリジナル部分だろうと推察できた。つまり「説明セリフ」によって台本作者が 顔を出してしまっている部分があったのは少々残念だった。また、ヤクザの流入、記憶喪失の男の話などもあって、少々話を盛り込みすぎのようである。上演時間も少々長い。
 舞台はもちろん夢千代が女将の置屋。芸者や旅回りの役者など総勢二十名もの出演者。この劇団では珍しく女性中心の芝居で、前進座は三味線や太鼓、踊りなど和事の藝ができるのを最大限に生かした芝居だという。そこはたしかにさすがで、今や贅沢の極み。
 先だって梅之助が亡くなった。スターがいなくなってきている前進座。世の観劇人口も減ってきている。若い世代にはヤクザとか置屋とか男と出奔とか、そういう世界自体なじみがなくなっている。そんなことも今やハードルとなる。これから正念場という気がした。是 非、うまく乗り切ってほしい。

 原作の早坂暁は、昭和四年生まれ。向田邦子と同い年である。老境だが存命。日本を代表する脚本家というのは知っていたが、それ以上の知識はなかったので、これもウイキを覗いてみると、他の代表作に、大昔のNHK時代劇「天下御免」があるという。あの頃、あのドラマは痛快で、毎週楽しみだった。飄々とした山口崇、存在感のあった林隆三(昨年死去)が印象深い。ああ、あんな斬新な作品を書いた人なのか、これで名が上がったというのは当然だと思った。現代の売れっ子三谷幸喜が、この「天下御免」のような台本を書きたいと思って脚本家になったということが書いてあったが、三谷の作風からして、すんなりと納得した。
 先日、向田邦子の本を読んで、 彼女のことを考えたばかりだったので、舞台とは言え、あの頃いろいろと出た秀作ドラマのひとつを観られてよかったという気持ちがある。 
 太田光は、向田邦子以降を評して「トレンディドラマと言われたもの以降のドラマしか知らない人達が増えていくほどに、ぼくはもどかしさは募る一方である」(「向田邦子の陽射し」)と述べているが、確かに今テレビドラマは、若い男女の「胸キュン」物語か、「あまちゃん」のようなライト感覚のものばかりである。小説などの原作を上手く料理する脚本家はそれなりにいるが、しっかり人間や社会を描くことができる、オリジナルを書ける台本作家はどんどん少なくなっている印象。
 もちろん、視聴率絶対主義や、不況ゆえ重いものを好まなくなった世相 も大いに関係しているとは思うが…… 。
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by hiyorigeta | 2016-02-20 20:51 | 観劇・映画 | Trackback | Comments(0)

トイレの話

 比較的温暖な冬。2月の一番雪が積もっていていい時期なのに積雪はない。それでも時々悪天候になるのはこちらの常。ただ、5時半になっても明るさが残り、それが春の予感を感じさせる。
 今いる職場の階は、上階が人口密度が高く騒がしいのに較べ、人があまりおらず静かな階。トイレは静かにできる。一年近くそうした環境にいて、気がついたことがある。トイレを使う絶対人数が少ない割には、大のほうが使用中のことが多い。恐らく理由はこう。上の階でひっきりなしに出入りするトイレでは落ち着いて用を足せない。大の戸を開けた時に知っている人と顔を合わせるのはばつが悪い。そこで、一階下りるのだろう。そのため、今度は私が用をたそうと、またその下の階に下りることになったりする。
 そうはいっても、いつも重なる訳でもない。静かなので昨年までと違ってゆったり用をたせる。そんな気持ちのゆったりさって大事だと今年しみじみ思った。
 実のところ、人がいない問題点も若干ある。しっかりトイレットペーパーの管理がされておらず、用をたしてから紙がないことに気がつくことが何度も。うち二回は、テッシュの持ちあわせさえなく、途方に暮れた。結局、トイレットペーパーの芯を揉みほぐし使用するという苦肉の策で乗り切る。こんなことはここのところなかったのに。
 今は冬。換気窓が開いていることが多く、トイレは外と同じ寒さ。そこで行く時は防寒着を着てからいく。そのあたりが冷暖房完備の一般会社と違うところ。 防寒着を着なくてよくなるのはあとどのくらいだろうか。ということで、どことなく今年は職場のトイレが親しい。(きれいな話でなくて失礼さま。)
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by hiyorigeta | 2016-02-19 20:50 | 日々の生活 | Trackback | Comments(0)

オーディオ今昔

 アンプ選びをしていてオーディオ販売サイトを覗いたり、オーディオ雑誌を読んだりすると、昔と業界が大きく違っていることに気づく。
 パイオニアは見る影もなく、いつのまにかオンキョーとくっついているし、ケンウッドは昔のビクター(JVC)とくっついている。オーディオ製品のラインナップも寂しいかぎり。昔評価を得たものを多少衣替えして出し続けているにすぎない製品も目につく。デジタル部分を付加する動きはそれなりに活発ではあるものの、斜陽の感はぬぐえない。
 特に日本のスピーカー分野は全面撤退一歩手前のような惨状で、ミニコンポ・レベルのものしか出していないメーカーもある。昔は魅力的な製品を出していたところなのに……と残念な気持ちでいっぱい。
 東芝は不正会計問題を受けての業績不振。シャープは会社存亡の危機的状況で台湾の会社に取り込まれることとなりそう。つまり、日本の電機メーカーは全体的に弱体化している。オーディオ雑誌の紹介記事がほどんと外国製品になるのも無理からぬことである。私の製品選びも、本当は日本製がいいのだが、そもそもこちらの希望価格帯にいいものがないので、決定打に欠けて困っている。
 ひさしぶりに大型家電量販店のオーディオコーナーに行っても、昔あれだけズラッと並んでいた売れ筋十万以下のミニコンポでさえ種類がない。シルバー色の本体の両脇にスピーカーが立つという、あの定番の姿の製品さえ全然売れなくなっているようだ。ソニーからは単に黒い直方体にしか見えない製品が出ている。スマホやデジタルプレーヤーを使ってブルーツースで飛ばすから本体につまみはいらないことになった。そんなルックスが今の住居空間には似合っていて、つまみがずらっと並ぶあの定番の格好は古くさく若者には見えるのだろう。実際、音楽好きの職場の若い女の子のオーディオはこのブラックボックスのみだと言っていた。
 男の収納術みたいなムック本を買ってみたが、若者向けで役に立たず、失敗したなと思って積ん読してあったものを、今度はイマドキの若者はどういう音響ライフを過ごしているだろうかという視点で、再度、載っている何十人分の若者の部屋写真を眺めてみた。さすが男の子、大抵オーディオ機器が置いてある。但し、ほとんど中央にテレビを置いてのビジュアル中心。左右のスピーカーが同じ場所に重ねて置いてあるステレオ音場無視の配置の人もいて、こちらはびっくり。中にアナログプレーヤーがある部屋がいくつかあった。一部若者に静かなブームという噂は本当らしい。それに、みんな本がないなあ。
 いずれにせよ、重量級でかさばる純オーディオのプリメインアンプを買って、家にドンと設置しようと思っている段階で、イマドキのライフスタイルからは遠く離れていることは間違いなさそうである。「どうせ年寄りの生活である。なにもイマドキに合わせる必要はない」と割り切るしかなさそうである。
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by hiyorigeta | 2016-02-18 20:49 | 音楽・ジャズ・オーディオ | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きしたり日々の生活をつぶやいています。文字ばかりですがご容赦下さい。時々日付をさかのぼってアップしたりします。http://tanabe.easy-magic.com


by hiyorigeta