2015年 05月 28日
小説が難しいということ
おそらく、作者は大丈夫と思って書いた江戸言葉や比喩表現が、その高校生には難しいと思っての質問なのだろう。たぶん、彼女の小説、相応の年齢の人が読んだら、全然難しい表現でもなんでもないのだろう。
こういうことはあり得ることである。想定した読者の文章読み取りレベルから外れた表現をすると、読者は難しく感じてしまうだろうし、かといって迎合もしたくない。小説家は、その狭間で表現を悩まねばならぬ。
ネットに載っていた漱石「こころ」の感想に、漢詩の素養を下敷きに難解な言い回しをしたり、理屈を展開したりして、「観念小説」の域を出ていないのではないかというのがあった。
「難解な言い回し」というのは、おそらく明治大正期の古い小説だからで、古めかしい表現に慣れていないせいのような気がするし、「観念小説」というのは、彼の小説は概して理屈っぽいという作風に関しての印象であろう。
この小説は、実に気持ちが具体的に書いてあって、その時々の登場人物の気持ちがうまく説明されている。今の感覚からすると、ちょっとくだくだしいだけで、「観念」を弄んだものとはまったく言い難い。
最近、読書は手間がかかるだけと敬遠する生徒が多い。たしかにエッセンスのみを抽出してあるわけでもなく、もどかしい部分も多いし、時間もかかる。その結果、ほとんど小説らしい小説を読んだこともないまま高校時代を通過する生徒が大量にでるようになった。
先日も、ある生徒に聞いたら、高校に入って以来、読んだ本は部活のスポーツの技術書だけだと言っていた。せめてそのスポーツのスターが書いた本くらいは読んでいないのかと問うても、その種の本を読んだのは中学までで、本当に、まったく、きっぱりと、読んでいないということであった。
能率とコスパを考えたら、読書にかかずらわっていては時間の無駄という結論になる。そんな人や読書が携帯小説どまりの人にとっては、「読むこと」の重要性をどれだけ松井氏が強調しても、声が頭の上を通過するだろうし、もはや「こころ」は、難解で観念的と映ってしまうことも想像に難くない。
どうすればいいかの速攻解決薬はないが、取っつかなくては何ごとも始まらない。表現というカタマリは、当然の如く当初は取っつきにくいものである。その取っつきにくさを多少の苦労をしながら自分の力で克服していかないと、次のレベルには行かない。
今の子が、本当に悲しいくらい何か小さな困難があるだけでポッキリ折れるのも、なんだか「まっさら」なまんまに見えるのも、つまりは、読書を含めた「経験」の不足が甚だしいから。