2015年 12月 23日
幹の会+リリック公演「王女メディア」を観る(市民劇場第317回公演)
梗概は以下の通り。王女メディアは夫イアソンと共に故郷コルキスを捨て今はコリントス暮らし。だが、コリントス王が自分の娘の婿としてメディアの夫を望み、失権回復のチャンスと夫はそれに乗ることにした。王から、メディアと子供たちの国外追放令が出たこともあり、彼女は激しく夫を恨み、ついには王とその娘を殺害、最後には我が子二人も手にかけるという何ともおどろおどろしい復讐劇。
夫は、彼女の陰謀の助言に従い、二人の子供を残してくれるように新妻経由で王に頼むなど、彼なりによかれと思った動きはするものの、基本、身の安定をはかる男の身勝手以外の何ものでもなく、空しい言い訳に終始する。もちろん、捨てられた女として彼を許せるはずはなく、彼女は復讐の鬼と化し、腹をいためた子供を殺してまでも夫を精神的に追い詰めようとする。最後の場面は、せっかく上手くいきそうだった将来をすべてぶち壊され、悲嘆にくれる夫と、この、ほとんど怨霊となっている妻との対比で終わる。
台詞は蜷川幸雄演出の時の詩人高橋睦郎のものを使用しているものと思われる。パンフには「修辞 高橋睦郎」となっている。台詞を聞くと、古典的な言葉を巧みに配して格調の高さを表 現していて、例えば、ギリシャ神々も「八百万の神」と表現する。そのため、我々は日本の伝統的な演劇を観ているような気分になる。それは演出も含めもちろん意図的な手法である。実際、ラストの場面、怨念の塊となって、子供たちの首を持って高いところから現れるシーンなど、ほとんど江戸時代の怪奇物語や歌舞伎そのままで、例の「玉梓が怨霊」などとと同じ世界が現出する。
平幹二朗はもういいお歳で、舞台ではあまり動かなくてもよいようになっていたし、一部はテープの声で、出ずっぱり喋りっぱなしにならいように配慮されていた(ただ、アンコールでは、殊更、元気に駆け足を我々に見せたりしてはいたが……)。
主役に動きの少ない分、取り巻き連中が右に左に控える場所を変えた り、長尺な布を使った演出などモダンな演出も取り込んで、単調さを回避させていた。
彼の舞台で我々はシェークスピアをはじめ多くの古典劇を観ることができている。何度も色々な形で上演されている有名悲劇はともかく、おそらく「冬物語」なんて、彼の劇を観なかったら一生観ずに終わっていただろう。
今や金沢市民劇場は二回の例会のみの団体となっている。今回、野々市会場がなく金沢会場二回。そのためか、観客は後ろ三分の二すべて空席となっていた。淋しい限り。(2015/12/21)