2016年 07月 10日
テストのマルつけ
若い世代の教員が、方便としてやっていた予備校風評論読解を勉強の本体と勘違いして育ってきた憾みがある。評論の読解こそ国語であると。
その上、パラダイムの変換ブームで、学部改編の流れが昔あって、その枠で勉強してきた人が今教員になっているということがある。「「堤中納言物語」が卒論です。」「前期自然主義が専門です。」というような人は徐々に減ってきた。何やら今時名前の言語コミュニケーション論が専門とか、その手の勉強して教員になった人が増えた。当然、文学にこだわる意識はあまりない。逆にこちらから言えば、国語教員の割に文学作品自体に対する教養をあまり感じない人ばかりとなった。
そんなこんなで、国語の内実は大きく変わってきているのを実感する。そろそろ私の国語教養はオールドファッションである。
評論四連続のテストのマルつけをした。文章が変われど問うているのは評論の読解力のみ。小説読解力、感受性、表現力、創作力というような方面が得意な人も大事な国語力なのだが、浮かばれない。マルをつけどもつけども理屈の文章。マルつけ自体が最近は辛くなっている。
それがようやく先週終わり、本当に息をついたというような気持ちでこの土曜日日曜日を過ごした。