2016年 09月 14日
藤原道頼という人
伊周は長男ではなかったのである。えっ、知らなかった。三男とあるので、手持ちの系図で、長男の名前が「道頼」というということを知り、また、ウイキのお世話になる。
母方が伊周のほうが有力であったなどの理由により、三男伊周が嫡子となり、以後の出世も道頼は伊周の後塵を拝するようになる。伊周が出世した後の役職を彼が継ぐというような動き。今で言うイケメンだったらしく、それを伝える記述もあるという。祖父兼家がかわいがり、祖父の六男というかたちで養子となっている。
兼家にとってみれば、不憫な孫であり、かわいそうに思ったのだろう。つまり、おじいちゃん心である。
千年前の、弟に先を越された兄の心境の本当のところなど、知るよしもないが、当時の世の常とはいえ、よい気持ちのしない人生であったのではないだろうか。彼は若くして死んでいる。死んだのが、九九五年七月。二十五歳の時。
伊周没落の直接のきっかけとなった「長徳の変」は、九九六年。死の翌年のことである。死んだ時は、ちょうど道長と伊周とが主導権争いの真っ最中。道頼は、一族が没落したところをみる前に死んだ訳だが、もし、生きていたら、どう思うだろう。悲しく思う中に、ちょっぴり、ざまみろ、みたいな気持ちも湧いたかもしれない。多妻制における異母兄弟の心情というのは、現代人にはさっぱり判らない。
全然知らない人で、これ以上のことも知らないが、ちょっと、いろいろ想像して思い入れしてしまった。
ちなみに、道頼の下の弟(次男)は頼親。庶子扱いで、そう偉くならないまま、中関白家(道隆家のこと)の没落で、ついに公卿(上達部)にまで行き着けなかった。
他に周頼(ちかより)という年下の弟もいる。変の際、仕事を辞しているが、再び仕事に復帰して、一応、生き残ったくち。
変後の、伊周・隆家以外の兄弟の人生も、想像するになかなか辛そうである。