2018年 01月 21日
外套のまま
その中に、明治の銀座の話が出ていた。何事も最近の銀座はお手軽になっているというのである。それは、銀座のお店が、外套のまま食べられるところが出てきたからという。
たしかにコートのまま食事するというのは、当時の人たちから見たら、お行儀の悪い下品な行動ということになり、それを許しているお店は、格下の店という認識だったのであろう。そんなお店が銀座に出来て、眉をしかめているという構図。
今でいうと、格式の高い銀座にファストフード店が増えたなあ、みたいな感覚だったのだろう。私も銀座四丁目の交差点筋に牛丼店があったのにはびっくりした。ここの地価で、表通りで、どれだけ客が入ったらペイできるのかしら。それに、そもそも三越の真ん前に赤い看板の牛丼って、ちょっとなあ、という気持ちが確かに湧いたから、当時の人たちの気持ちもよくわかる。
前にも書いたけれど、丼物は店屋物の配達の利便性のために発達したもので、ご飯の上に具をのせること自体、明治の昔は下賤なものという感覚だったはずである。現代の銀座四丁目交差点の牛丼店を、私が「あれあれ」と思うのには、丼物という食べ物自体の「格」の感覚も関係している。ただ、この感覚自体、もう過去のものっぽい。
冬、外食すると、車を駐車場に止め、外套を着込んだまま店の中に入る。靴を脱ぐようなお店だと外套も脱ぐが、そのままカウンターにすわるような場合は、たしかに外套は着たままということはよくある。
そんな、外着のままで食べ物を口に運ぶのは、確かにお上品ではないので、脱ごうという決心はつくのだけれど、では、それをどこに置くのだということになると、隣の椅子の上あたりしか思い浮かばず、それでは場所取りみたいで、あまり褒められたものでもなく、コートを脱ぐというお上品な行動を全うするのは、カウンター中心の今のスタイルでは、実はなかなか大変である。結局、牛丼くらいなら、さっさと食べ終わるし、コートのままでよいということになりそうである。
おそらく、こんなことで悩んだりしていること自体、年寄りの証拠みたいなものかもしれない。