カテゴリ:教育・世相( 45 )

今、必要なのは

 読んだ文章その一。敗戦後、日本人はそれまでの民族主義的な歴史観を反省し、「自分たちが囚われていた慣習や伝統から解放し(中略)自らの理性的能力によって主体的に選択・判断」できる自由な個人が推奨されてきた経緯がある。民主主義というのは、まさにそういうことだと思ったのである。
 それに、現代、ネット社会によって、地域性が希薄化し、今そこに住んでいる意味や日本人としての文化的特質の意味が消失してきている。その結果、同一文化を共有しているのだから、日本人だったら、共通した民族的感性・思考があるのは当たり前だ、とは言えなくなってきている。
 その結果、我々の判断は、歴史や文化などを踏まえない、「実体的解釈」に引きずられることになる。
 以上は、黒宮一太の文章「ネイションとの再会」の一部を、我流に日本の現代史に当てはめて要約したもの。問題集に出てきた。


 読んだ文章その二。現代は、大量生産による商品の規格化によって、消費は個性を失い、画一化する。また、昨今の情報量の増大と速さの増大により、知識は、専門化・細分化する。そうした画一的な断片的知識のみ増大する上に、考える能力が弱い現代人は、自分なりの全体像を作りえず、結局、大衆報道機関(当時はテレビ)が提供する全体像をそのまま受け取る「現状適応主義」に陥る。
 以上は、加藤周一が一九七〇年代初めに書いた「文学の擁護」の一節の要約。同じく問題集に出てきた。たしか、一九七〇年代終わりに、一冊ちゃんと読んだ記憶がある。


 加藤の「現状適応主義」、黒宮の「実体的解釈」とは、つまり、文化的特質や歴史性を考慮しないで、今あることだけで判断する、私流に言うと「現状のことだけで判断してしまう主義」のこと。つまり、この二つの文章の結論は同じである。特に、古い加藤の文章からは、今後、日本人は保守的傾向に向かうという予測と、その警鐘という側面も感じられる。

 映像中心の世の中になって、情報は常に新しいものが大事ということになり、古いというだけで価値の低いものとなった。事件の背景などに論説を加えた新聞は、だから売れなくなっている、というのも同様の流れといえる。

 実体的解釈。これは、例えば、歴史的に長い対立関係にあるA国とB国とが、たった今、A国が先制する形で戦争を始めたとする。長い対立・遺恨の歴史を捨象して、今起こった事件のみを捉まえて、最初に殴った人が悪いに決まっているでしょ。という判断になる、ということである。  


先日、ある方が、雑談で私に、最近、今の倫理感覚での正論、あるいは、表面的な原則論ばかりが横行して、実質的状況や、内心、国民はこう思っているけど、口に出さないだけ、といった本音を言うと、一気に悪者になったりする。実質や本音が言えないような社会は滅びるよねえ。いつ、こんな変な世の中になったんだろう?、とこぼしていた。この方、最近、SNSか何かで、書き込みが炎上したのかもしれない(笑)。この指摘も先の話題と方向性として似たところがある。
 
 今、必要なのは、グローバル至上主義の風潮の中で、歴史性や文化的特質を深く理解して判断できるかということである。現状解釈・正論というのは、簡単に導き出せる結論でしかない。


 さて、新学力観。今、日本政府が次世代につけさせようとしているのは、いかに的確に現状や情報を収集し、把握し、処理し、それを活用していくか、という能力である。つまり、「現状適応主義」を、いかにうまくできるか。新テスト(試行)も、その能力の差を問うている。
 評論家たちが指摘し、年寄りの我々も、現代はそうなっていると心配している国民的課題は、この「新」のほうでしょうか。今だからこそ、手厚く発展させていかないといけないほうを、逆におろそかにしようしようとしているのではないかと心配している。

 アクティブ・ラーニングの時間の確保と、知識偏重から脱出するため、歴史の知識は大幅に減少させるという試案が出ていて、それが新聞に載っていた。伊藤博文は教えるが、吉田松陰や坂本龍馬は教えない。伊藤は役職に就いて、明治国家を動かしたが、吉田・坂本は、その本人に帰着する業績を上げているわけではないからということなのだろう。
 でも、歴史を本当に動かす原動力になったのは誰? 考えたのは誰? 下準備に奔走して、誰もが無理だと思ったことに道筋をつけたのは誰。そこを押さえなくて、幕末・維新期を「深く考えよ」と言っても、一体、何を考えるというのかしら?


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by hiyorigeta | 2018-02-01 21:21 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)
 一昨年、センターの国語はえらく簡単で、平均点は約130点もあった。次の年、難しくなるだろうという予想通り、多少難しくなったが、思ったほどでもなく、個人的に120点くらいだろうと思った。当初、予備校も、そのくらいの数字を出していた(確か、業者は、自己採点票を本格集計する前に、自分のところの浪人生をサンプリングして予測をたてるのが、このすぐに出る数字だと聞いている)。
 ところが、最終的に平均は107点で、この内容でこんなに低いんだと驚いたものだ。これは、受験生全体の国語の実力が落ちている証拠ではないかと思われる。
 ただ、落ちているのは、中間以下の層ではないか。上位の難関大や国公立を狙う層は、そんなに大きな下降はないはずで、この平均点に惑わされたらいけないと受験生に諭した覚えがある。平均点が低いから、自分の国語の点が必要以上によく見えてしまう恐れがあるということを知らせたかったのである。実際、去年、国語では失敗しなかったという認識の子が多かった。でも、本当にそうかは怪しい。

 さて、今週水曜日、センターから中間集計の平均点が出た。恒例、業者のセンター後すぐの平均点予想は、ベネッセ・駿台111点、河合塾103点、東進110点であった。つまり103点から111点の幅。業者はこうした予想の当たりはずれは 商売柄、面目にかかわる。
 で、今回のセンターからの中間発表は102点だった。ということで、二つの業者はえらく外れたことになるし、幅からも下方向に逸脱した。特に受験まで一番データを持っていると思われるベネッセが一番外れている。業者も、今年は去年のことを踏まえて、実力下降傾向であるということを織り込んでの数字だろうから、その予測より下になってしまったということになる。確か、センターの問題は国語で六割くらいを念頭に置いて作っていると聞いたことがある。
 正直、私の感覚でも、このテストで半分しかできていないというのは、どうなんだろうと思う。十年前だったら、やはり120点くらいのテストではないかしら。
 ということで、国語力の低下は、単なる年度の誤差ではなく、ほぼ定着してきたと私はみている。残念なことに。
(年寄りの個人的な感想です。違う認識の方がいて当然です。実際、意外に高得点は取りづらいテストではないかという意見も聞きました。)

(追記)
 最終集計の結果は平均104.7点ということでした。


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by hiyorigeta | 2018-01-20 19:49 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)
 土日にあったセンター試験。「国語」の問題は、新テストへの移行を意識した問題が少し出た。来年度くらいからかなと思っていたので、思ったより早い対応である。例えば、特になくてもいい絵(写真)があったり、試行テストと同様、A君B君C君の会話があったり。普通、あんな片手の指一本一本にコーヒーカップ持つかなあと授業で呟いたら、結構受けました。みんなそう思っていたような。ただ、全体的にはこれまで通り。

 小説は、井上光晴の娘、井上荒野という方の「キュウリいろいろ」という作品。きわめてオーソドックスな語り口で、正統派の展開。
 子供を亡くし、そのことばかりで人生を送り、夫に心を閉ざして過ごしてきた妻が、夫の新盆の折、夫の同級生に夫が通っていた高校などを案内してもらう話で、これまで夫を責め恨み、自分から止めていた夫について、今更ながら気づいていくという展開。
 私は男なので、奥さんがこれでは、旦那さんは死ぬまでつらい夫婦生活だっただろうと想像し同情した。
 今の子供は知らないから、注が施されていたが、胡瓜で作る馬はお盆の風習。亡くなった家族がそれに乗ってやってくると言われている(知ってはいる風習だが、私の地方ではあまり見かけたことがない。東日本に多い風習という)。
 彼女自身から動いたので方向性は反対だが、彼女にとっての「キュウリの馬」は、郊外に向かう電車や、元同級生が漕いでくれる自転車である。彼女は彼の若いころのことを感じる。つまり、ちゃんと彼女は乗り物に乗ってお盆に夫に会えたのである。
 上手くできている。
 この、乗り物に乗ってお盆に夫に会えたというところは、この箇所のツボだと思うけれど、テストの問題としては決めつけられない部類の解釈なので、設問としては聞きにくかったから出さなかったのだろう。そもそも、問題を解いてる当事者が、そこまで余裕をもってこの小説を読むことは時間的に不可能である。実際に受けた受験生に聞いたところ、そこまで気づいていた人は皆無だった。言われてみて「なるほど」という反応。
 ただ「いい話だった」というのは、ツイッターで受験生が多くつぶやいていたそうだ。

 今時だなと思ったのは、作者自身、テスト後、つぶやいていること。自分で解いてみて、全問できたと喜んでいるツイートがあった。彼女の夫は、「適当でないもの」というのを「適当なもの」と勘違いして、間違えたという話も紹介されていた。小説作法の問題も出るのか、難しいものだというのが作者の素朴な感想らしい。
 この方のツイッターも少しさかのぼって読んだけれど、気軽なつぶやきも多く、堅苦しい方ではないようだ。こんなのが分かるのも、SNS時代ならでは。
 最近、ちょっとこのこの描き方はどうなんだろうとかいう小説も混ざって出ていたので、本当に丁寧に描いてあるのが出て、安心した。
 それに、結婚三十五年を超えている夫婦の問題を扱っていて、それは、まったくもって私たち世代か、それより少し上の年齢の話で、受験生より、私たち世代にとってよく分かる話だったということもあるかもしれない。

 当事者ではない下の学年の授業で、感動する話だったよねと言ったら、感動するという内容とは思えませんと言いに来た生徒がいた。うん、感動というのは、ガーンと感動して涙ポロポロみたいなものだけでなく、しみじみ心にしみるというニュアンスもあるよ。そっちの意味でだよ、と説明すると、納得してもらえましたが、やはりそのあたり、同世代のほうがしみじみと感じた話だったようです。

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by hiyorigeta | 2018-01-18 21:42 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

 今回は、ちょっと真面目に今後の国語教育を考えます。
 同教科の教員の集まりで、最近、漱石の「こころ」は、教科書によっては、「明治の精神」の部分が省略されるようになったねえという話が出た。そのため、Kの自殺に気づく場面で終わってしまって、明治の精神とつなげる授業は省略されることが多くなった。手ごわいテーマで、さらっといくわけにもいかないという事情もある。
 でも、ベテランたちはそれを残念に思っていた。明治・大正という時代の雰囲気を理解するにはいいチャンスなのに。そのことをイメージさせることは、歴史観にもつながり、文型人間として大事なことだ。各章の読み取り作業だけをやっていてもねえ。

 さて、先日、今の中学三年生の代から実施される新共通テストの試行問題が公開された(大学入試センターWEBサイトにあり)。記述問題の採点が業者まかせになるが公平性は保たれるのかなど、数々の問題が指摘されている例の新方式のテストのことである。
 一問目は「生徒会部活動規約」が書いてあって、それに対する会話がのっている。二問目は、図表や写真などを使いながら説明している実利的文章。文章自体は難しくない。この問題が追加されていて、大問が一つ多くなり、テスト時間が延びた。

 大雑把な傾向として、情報把握能力、相手の立場や相手の理解が分かっているかというような一種のコミュニケーション能力や単発的な判断力を聞いているような気がした。まあ、現代文は、新学力観なら、こういう問題になるんだろうなという問題になっているというのが第一印象(A君B君C君の会話の中の空欄に適語をいれるとか)。難解な概念と格闘するとか、〇〇主義などという言葉が行きかう思想書とか、〇〇学入門的な学術的文章、芸術論、文芸評論などの分野は、この新傾向の聞き方とは相いれない部分があるので、出しくくなのではないかしら。実利文章中心の出題。

 以上から、印象にすぎないが、文型に求められているのは、深い思索が出来る(いい意味での)インテリではなく、会社で上手いプレゼンが出来て、会議でちゃんと意見を聞いて、理解することができ、かつ的確に意見を言える、国際的に通用する「できるビジネスマン」のイメージが、今回も最終目標のような気がする(これはITがスローガンだった森首相のころから変わらない)。
 この方向性は、すべての事柄を経済の再生に向けてシフトして、日本丸を沈まないようになんとかしようと躍起になっている日本の現況をそのまま反映しているのだろうし、そんな努力ももちろん大いに必要で、それ自体、全面的に否定するつもりはないのだけれど、そればっかりで染め上げようとすると、逆に沈む原因を作ってしまうような気がして心配である。

 古文のほうは、「源氏物語」の本文の違うのを二つを並べ、三つ目に校訂した古人がその部分に関して書いてある文章を載せるという、本文三つある出題。新傾向ではあるが、ちゃんと基本古語を絡ませてあるので、問題として奇抜ということはない。ただ、おそらく新テストでは文法をダイレクトに聞くような問題は敬遠されるのではないかしら。本文を一字一句深くやるのではなく、関連文章もしっかり教えて、広く押さえられる実力をつけさせないといけないのだろうねえと同僚と話した。
 ということは、今回の試行テスト。一見新しい感じもするが、センターで出題傾向が固定化し、それに合わせた授業をし始めた以前の、社会的背景を押さえたり、関連資料を色々読ませたりして、色々膨らませてやっていた大昔のやり方の戻ればいいという面もあるのかもしれない、というのがベテランん先生の意見としてあった。若い先生は新しく見えるが、ベテランは温故知新的に見える部分もある。それはそれで悪くない傾向のような気もする(つまり、新テストのいい面も確かにあるように思う)。

 ところで、この話を他教科の方に話したら、どの教科も似たり寄ったりの傾向だったらしい。地歴の人に話したら、そんな方式の問い方は地歴ではしょっちゅうやっているとのことで、国語までそんなことやるんですかという意見であった。理科も表からの読み取りなどは日ごろからよく使う。数学は、計算の前に国語的な能力がいる問題だったという。この場合も、説明文から、意図をくみ取り、なにをすべきかを考えないといけないという点で、新学力観に合致している。けれども、これも、いうなれば、計算前に間違った理解をしてしまう人が一部出るというレベルの話。こちらの考えている国語の実力とは違っているが、広く浅い意味での「国語力」は、逆にこれまで以上に必要になっているともいえる。

 以上、漠然としたイメージでしかないが、「金太郎飴」のような出題になってやしないかというのが今回の試行テストの個人的な感想。今後、教育自体がこの種の能力の伸長に躍起になるので、授業自体も教科が違っても同じようなことをやってしまって、単調になってしまうのではないかと心配する。それに、生徒は「国語って、こんなもんなんだ」と思って、技術的に対応するだけで、深く掘り下げなくなるのではないか。
 今後、こうした新学力観に合わせた教育が求められ、授業も大きく変化していることになるけれど、「そんなんでいいんかい?!」という思いが常に心に湧くので、意欲がわかず、どうにもこうにも、個人的には辛いことになりそうである。

 先に、この数十年で、国語教科書から「文学」的要素がどんどん消えていっていると指摘した(だって、当時は、近代短歌史、俳句史解説まで教科書本文としてあって、習ったし、教えもした)が、もう「文学的教養」なんて、本当に吹っ飛んでいきそうである。
 こうした傾向に合わせて、いずれ教科書も、図表やイラスト、写真が多用されたものになり、対応の「実践ワーク」みたいな副教材が必須になってくるだろうと推測される。こうした能力をつけるさせるには、作業ワークが一番の近道。

 こちらの勝手なイメージなのだが、こうした教育をしていると、表面上、社会に出てソツなく生きていくにはいいかもしれないが、内面の陶冶が十分できないので、「いい歳こいて、そんな軽はずみな事件起こして‥‥」みたいなことが乱発する世の中になるような気がする。
 ただ、その分、ご商売は国際的になって上手くいってV字回復することもあるかもしれないし、最近はさっさと予定変更するので、どうなるかは分からない。この種の聴き方はさっさとパターン化して行き詰まり、変えようという話がまたぞろ出ることも十分考えららる。
 国の教育の成果は、三十年後に国民の資質となってはっきり出る。三十年後がどうなっているか、不安でもあり、楽しみである。唯一の問題は、こちらがそこまで生きていない(泣)。

(以上、さらっと見た程度での感想で、かつ、教員との立ち話程度の取材で、全然、厳密ではない。そもそも推進派から見たら、ネガティブモード全開の意見に過ぎないと思われるだろうし。言い捨て御免)


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by hiyorigeta | 2017-12-23 20:27 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

世界は二人のために

 梅雨末期的な雨で、湿っぽさマックス。エアコンは除湿モード。確か除湿モードは電気代が逆にかかるという話を聞いたことがあるが、どうなのだろう。家の白いエアコンもだいぶ黄ばんできた。人工樹脂の白色はたいていこうなる。
 さて、以下は、引き続き、去年書いた断片の蔵出し。統計の紹介だけで展開できず。

 先日、テレビの歌謡番組で、相良直美ではない誰かが「世界は二人のために」を歌っていた。本当にひさしぶりに聞く曲である。「愛、あなたと二人、夢、あなたと二人~二人のため世界はあるの」という山上路夫作詞いずみたく作曲の1967年の大ヒット曲。一時、結婚披露宴ソングの定番になっていた。
 燃えるような恋をしているのでしょうね。この主人公。今時、こんなストレートな曲はありません。ゆったりとそればかりを繰り返す。当時、子供心でも単純な曲だなあと思ったおぼえがあるけれど、今聞くと、逆に、それが新鮮だったりする。未来を素直に信じられる、よき時代だったんだなと思わずにはいらない。
 はしだのりひことクライマックスの「花嫁」(1971)もそう。「命かけた恋が今結ばれる」という強い思いで「何もかも捨て」て、愛に生きようとする。これも、つまり、愛というものが堅く信じられていた時代ならでは。

 女性が高学歴化し晩婚化して、三十歳で独身が半数以上。都会では七割。無理に自分を安売りしたくない。そうなると、結婚も諸条件整備の上ということになる。歌詞のような駆け落ち辞さずの燃え上がる愛は、素敵で少々の憧れもあるけど、おそらく自分はそうはならないだろうなと思っている女性がほとんどなのではないだろうか。
 先日、石川の人口減少の分析結果が県のパンフに載っていた。二〇一四年現在、出生率は1.45。未婚率は、男性二十五歳~二十九歳では七十パーセント、女性は五十九パーセント。
 社会減としては、大学進学などで県外からの流入があるものの、就職時に大都市圏など県外に流出する人口が、2014年単年度で一三二七人もおり、マイナス五八六人となっている。
 このままでいくと、五十年後には石川県の人口は四十万人ほど減り、現在の115.5万人から79万人ほどになるという。高齢化も進み、2010年現在、六十五歳以上の人口が占める割合は23.7パーセント。いずれ三人に一人は高齢者になるという。県は、経済活動が縮小し、各種行政サービスが低下し、地域コミュニティの機能も落ちていくと警鐘を鳴らしている。
 そこで、行政は、人口減の要因のひとつを取り除くために、就職時、地元に残ってもらおうと、高校生向けに講演会を開きアピールする。ただ、進学校の場合、「世界に雄飛せよ」と指導しているところばかりなので、大人は指針を二つ指し示しているかのようになっている。

 県内の独身男女に、今、異性とお付き合いしているかを聞いた調査結果が一ヶ月ほど前新聞に載っていた。男七〇%、女六〇%が異性とのお付き合い現状なしという。
 ところで、この一〇%の差はなんだろうねという話になった。二股かけている、あるいは、既婚者とお付き合いしているから数値が違う、というのしか男の私には考えられなかったが、ある女性は、異性とのお付き合いという概念や関係性の基準が、男女で違うからではないかしら、という意見を言っていた。確かに、あり得る話である。
 でも、おそらく、二股・不倫も何%かはあるよねえ。おそらく。



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by hiyorigeta | 2017-07-24 23:40 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

いい元号であれかし

 天皇の退位という事態となり、新しい元号が、急にではなくて何時というはっきりと決まった日時に変わるということになった。
 もう何度も書いたことだが、大学の授業のある日、宇野精一先生が雑談の中で「もう新しい年号決めてきた。今は出番まで金庫の中で眠っている」というようなことをおっしゃって、我々生徒たちは大変驚いた。その瞬間のことは、よく覚えている。昭和天皇が亡くなったのは、それからだいぶたってから。例の小渕官房長官が「平成」という習字の字で書かれたパネルを見せたシーンを見ながら、これが、あの時、先生が言っていた金庫の中のやつかと思った覚えがある。
 さて、この時の記憶があるから、私は 、今回も、もうとっくに元号は決めてあるものだと思っていたが、どうも、そうではないらしい。今度決めるための動きをするというようなニュースを、ちょっと前にやっていた。
 そんな話題の中で、前回の様子をまとめてある記事をネット上で見つけた。あの時も、宇野先生は自分だけで決めたといったニュアンスではなかったので、何人かの委員がいたのだろうということは察せられたが、記事によると、学者三人で打ち合わせたという。宇野先生の他に目加田誠氏、山本達郎氏。
 「平成」というのは、先生の案ではなかったらしい。私はてっきり先生の案かと思っていた。先生は「正化」を推し、目加田氏は「修文」を推した。
 実際に「平成」の案を出したのは、だから山本氏だとも 、故安岡正篤氏が用意してあったものとも言われている。三人の話し合いの内容などの詳細は、もちろん判らない。
 正式決定は、天皇の死後、有識者懇談会に諮り、閣議の承認を得るという手続きをとる。会では、頭文字が「昭和」と同じ「S」にならないほうがいいという理由で「平成」に満場一致で決まったという話がネット上にあった。ただ、どのあたりまでが真実なのかは分からない。
 不肖の生徒からしてみたら、宇野先生が「正化」を推した理由や解説を直接聞きたかったなというのが今の感慨である。
 ネット上で、この幻の案の出典は、これではないかと予測して、掲げてあったので、ここに引用する。出典は『易経』という。

「重明以麗乎正、乃化成天下(重明以て正に麗(つ)けば、乃ち天下を化成す)」現代語訳は、「明が重なって正しい道に着けば(君臣上下が共に明らかで正しきにつけば)、天下ことごとく感化育成される。」

 この出典の正否は判らないが、「正につけば天下は感化される」というのは、いかにも儒教としての王道の考えである。先生は、確かに正義心が強く、時の政府の施策を批判したりすることが授業ではお得意であった。よく脱線して、そうしたお説を聞かされたものだ。だから、今回、「正化」と分かって、先生らしいチョイスだったのではないかしら、という気が後から湧いた。
 私が習ったころは、もう東大を定年退職した後の余生仕事だったこともあり、時事批評の話が多くて、授業をどんどん進めてほしいとチラリと思った覚えがある。でも、先生からしてみたら、大学生といってもまだ二年生、それも一般科目での授業で、そんな初学者たちに教える内容なんて、口角泡を飛ばして説明するほどのレベルではなかったということだろう。今になるとよくわかる。当時から大先生だということは知っていたが、若気のいたり。今から思えば、もっとまじめに聞いて、質問して、先生に食いついていけばよかった。もったいないことをした。

 「平成」は、国民みな好評をもって迎えられた。あの時、誰に聞いても、みんないい元号だと言っていた。「平らかになる」なんて、子供でもその願いが分かるし、漢字も簡単で親しみやすい。私もすぐいい元号だと思ったし、(字のバランスが難しい以外)今でもいい年号だと思っている。

 さて、その「平成」も終わる。祖母は「明治・大正・昭和」の三代を生き抜いた世代だったが、私たちも、もう少し生きていると、「昭和・平成・〇〇」の三代を生き抜いた人たちということになる。
 ただ、祖母は「日清・日露・第一次・第二次世界大戦の荒波をくぐって生き抜いた」というニュアンスがあるけれど、我々には、そんな苦労の経験はない。馬齢を重ねただけの「三代」である。日本人の生死にかかわる特記すべき大事件は、特になかったが、でも、それは、もちろんいいことだったのである。
 今回、どの学者たちが原案を決め、誰が懇談会のメンバー(前回は、哲学者の中村元などが委員だったらしい)になるのか、知る由もないが、前回のように、国民がみんな聞いただけで「いいな」と思 えるようなものにしてほしいもの。
 こんなことを取り立てて言うのは、妙に政治誘導的な、あるいは選民主義的・国粋主義的・国威高揚的なものになるのではないかと危惧しているからである。今日この頃の流れだと、選んだ理由に「日本民族としてのアイデンティティを高揚し、矜持を持って」云々なんていうニュアンスのものになりそうで心配している。

 今年は、この種の心配ばかりしている内容の日記が多いが、やっぱり、我々世代として心配だからである。若い人たちは、私たちの思いをどう思っているのだろう。もしかしたら、それが我々と大きく違っているのではないかというのも、心配のもとになっている。


(追記 この記事をアップした二日後の七月十六日付「北陸中日新聞」に、当時の元号制定の経緯について、元官房副長官的場氏への取材記事が載っていた。それによると一九八七年に山本氏から提案があったという。天皇死去の二年前である。私が授業で聴いたのは、氏が内閣審議室長としてこの問題に関わりはじめた八五年より前の話である。事務方の当事者であり以後の流れは氏の発言通りなのだろう。氏の話の中に山本氏目加田氏の名前は出てくるが、宇野先生の名前は出てこない。的場氏の関わっていない時に宇野先生は関わっていたということなのだろう。
 この「一問一答」で、やはり、死亡者の案は採らないという慣例により安岡氏の案は廃されていたこと、「平成」を山本氏から聞いて、これしかないと彼は大いに気に入ったということ、当日の審議会席上、アルファベットがHで、M・T。Sの続きのイニシャルとして据わりがよいと発言し(彼は「とっさに」と言っているが)、強くプッシュしたのはこの御仁であることが明らかになった。このことから、事務方的には「平成」で流れを作っていたことが判る。閣議の方も「異議はないという雰囲気だった」という。
 氏の話では、山本氏・目加田氏と市古貞次氏に依頼したとある。時期が違うとは言え、どうも的場氏の話だけで、この制定経緯の話はすっきりとしたという訳にはいかないように思う。
 それにしても、出てくるお名前、大先生ばっかりだ。2017/7/16) 



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by hiyorigeta | 2017-07-14 03:48 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

世相メモ


 おらの地域の利権代表として選んだ国会議員。結果として衆参とも現与党が圧倒的多数を占め、怖いものしらず。国民の保守化によって現政権支持率も不支持を圧倒しているので、輿論であるという正当性もつく。
 以下、後年の自分のためのおぼえとして、ここのところ世の中で起こって気になったことを、新聞やテレビから拾い読みして羅列しておく。

・二年前の安全保障関連法案に引き続き、「共謀罪」が参院で強行採決され、本日、成立した。賛成が165票、反対が70票と圧倒的。賛成が国民の民意ということになる。前回ほどの国民の動きはなく、国民は「ゴリ押し慣れ」しているとの指摘もされていた。

・四月、護衛艦が二隻竣工したというので、映像を観たら、全面飛行甲板で、どう見ても空母である。違うという理屈は色々つくらしいが。そのうちの一艘は「加賀」という名なので、やっぱり空母である。違う違うと言っておきながら、臆面もなく旧海軍の空母の名をつけてくるあたり確信犯的であるという見方も。

・天皇退位の後の名前が「上皇」になる。「院政」を想起する。ご本人は公務軽減や引退をしたかったのだろうに、こんな天皇の上のような称号は、どう思われるだろう。御座所は京都にという運動も起きている。

・学校教育で選択できる武道のひとつに「銃剣道」が追加された。例の銃の先に短剣をつけた銃剣を模した棒を振り回す競技。愛好者は三万人程度しかおらず、そのほとんどが自衛隊員という。文科省は教員の激務軽減に積極的な外部コーチの利用を呼び掛けているので、校地に自衛隊員が指導者として出入りするという事態も考えられる。つまり、学校で軍事のプロが敵を想定した訓練をする。これ、昔の軍事教練とどこが違う?

・北朝鮮による相次ぐ弾道ミサイル発射を受け、朝鮮半島に近い地域で弾道ミサイルを想定した住民避難訓練があった。わざわざ実施して危機を煽るPR効果を狙ったという指摘もあった。これと同じ防空訓練を子供の頃にしたことがあるとご高齢の方がテレビのインタビューでニコニコ語っていたが、うーん。
(追記 後日、引き続き本県でも実施することになり、能登の小都市が選ばれた。)

 次に世界で起こったこと。

・今年になって自国優先主義の保守的指導者が相次いで各地に誕生している。
・イギリスをはじめ世界各地でテロが頻発している。
・北朝鮮のミサイルが着々と進化している。

 世界の歴史を観ていると、どこかで戦争に舵を切ったら最後、戦争に行きつくまで、軍縮とか紆余曲折はあるものの、いくところまでいってしまうというところがある。今年、特に感じるのは、その舵がもう切られてしまったのではないかという漠たる不安である。


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by hiyorigeta | 2017-06-15 22:38 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

さすがの大学


 今年は大阪大学の問題演習を担当したので、大阪から帰ってきた生徒が問題を見せてくれました。本文にラインを引いてある苦闘の跡が生々しいもの。
 「現代文」問題の大問二は、吉見俊哉『「文系学部廃止』の衝撃」(集英社新書)が出題されていた。国立大の文型はコミュニケーション系以外の学部を縮小し、それらは私学が担当すればよいという見解を先年発表し、衝撃が走ったが、それに対する分析の文章である。もともと新書ということで、気軽に読めることを想定していて、平易な文章の部類である。
 受験生はもちろん文型の子たちで、これを読み、説明問題の答えを書く。まるで文型は益がないかのように思われているが、そうではないというということを説明している。
 それにしても 、この文章を受験の文章として出すことに大阪大学の矜持を見る思いがした。受験の文章に出すことで、大学自体が文科省に面と向かって「オカシイやろ!」と反論しているのである。
 いやあ、なかなかの「漢」だなあ。この大学を、いまさらながら惚れなおし(?)ました。

 このことを話していると、司書の先生が、この本はちゃんと図書室に入れてありますという。時事話題として、この問題についても本を入れておいたほうがいいと判断していれましたとのこと。さすがにご商売である。
 ということで、早速、この新書を借りていった生徒がいて、今は貸し出し中。目を通してみたいと思ったが果たせないでいる。

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by hiyorigeta | 2017-02-27 23:39 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

 先日、次期「小中学習指導要綱(案)」が公表された。目玉の目標である「アクティブ・ラーニング」が、「ともかく、グループ学習させればいいんだろ」的な解釈をされ、「活動あって学びなし」に堕している現状の試行結果を踏まえ、知識の習得にも時間をかけるべき旨明記されているところが、なんとも可笑しく、さい先思いやられる「目玉」である。
 中で気になったのは社会科で、当時使われていなかったとか、一部で通商があったからという理由で「鎖国」という言葉を使わないという。代替用語は「幕府の外交政策」。ただ、これでは、外交全般を表す言葉でしかない。幕末の「開国」のほうはそのまま使うと いうし、何か違和感が残る方針である。
 他に聖徳太子は「厩戸王(聖徳太子)」にするという。確かに厩戸王という言葉も習った。こちらのほうが当時の言い方なのだろう。でも、以後、聖徳太子立像や掛け軸などほとんどの作品はもちろん聖徳太子のほうで呼びならわしている。
 その後の文化的な受け継ぎなども含めて決めるべきで、変にいじくると、長い目で見て混乱するのではないかと危惧される。一見、学問的成果の結果の変更であるという衣を纏っているが、私には、今世界ではびこる硬直化した「原理主義」の流れのように感じるのは私だけだろうか。

(追記 後日の新聞によると、異論が多く出てこの件は急にトーンダウンしたらしい。)

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by hiyorigeta | 2017-02-22 20:32 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

語りを聴く

 職場で、地元在住の「語り」の専門家による朗読の会が行われた。前半は、茨木のり子の人となりを紹介しながら代表的な詩を語るというもので、初めて触れる子供たちにとって分かりやく構成されていて、うまいものだと感心した。
 また、後半の童話は、感情込めて語っていただき、情景が目に浮かぶようだった。まったく本を見ないで話していくのには驚いた。さすが専門である。

 最後に、私がまとめ役ということで、こういう話をした。
「我々は、文章を黙読したり映像で見たりすることばかりで、耳から詩や物語に触れるめことがほとんどありません。国語の時間の評論読解は、おそらく脳の大脳皮質あたりで処理していますが 、こうして詩の朗読を聞くと、簡単な言葉だけにいったん脳を通過して心の部分にすっと降りていきました。これは最近めったに経験しない心の動きでした。次の物語は、脳裏に情景を浮かべよういろいろ心が努力していました。これも映像を見るだけではしない動きです。今回の「語り」のお陰で、忙しい俗世から離れて、別空間に浸ることができた素晴らしい体験でした。」

 こうした催しものは初めてという人や小学校以来という人がほとんどの中、感想コメントも私のまとめと同様なものが多く、皆、新鮮に受け止めたようだ。声を出して読み聞かせるという行為がいかに重要かを、昨年に引き続き実感した。この商売をしておきながらおろそかにしている自分をちょっぴり反省。大昔は、物語などをこち らが一部朗読していたこともあったのに。最近は家で読んでおけですましている。

 さて、先日、図書館で購入する本を関係生徒とともに本屋に行って選んできた。そこで私は「茨木のり子の家」なる本を見つけ、購入図書として選んだ。
 中を見ると、一年前この日誌で触れた、彼女の家の外観や内部が写真でいろいろな角度から紹介されていて、ところどころに彼女の詩が入る体裁。部屋内部は調度品も含めてそのまま保存されいて、「寄りかからず」に出てくる椅子なども写っている。
 その本を読んでから、おはなし会に参加したのだが、「Y」の字が書かれた文箱や、生前に書かれた死亡案内状文案など、この本に載っていたものを次々話者が紹介していくので、驚いた。それならばと、このまとめ の話の時に、ここにこういう本がある紹介することにした。「すでに配架処理されてあるので、借りられますよ」と大宣伝したのだけれど、結局、誰一人借りなかったのは、あれだけ、アンケートでこの会はよかったと言っておきながらと、ちょっと残念であった。
 今の子は、こうしたところを深めていかない。あっさりと次に行ってしまう。
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by hiyorigeta | 2016-12-22 18:10 | 教育・世相 | Trackback | Comments(0)

荷風散人宜しく金沢をぶらぶら歩きしたり日々の生活をつぶやいています。文字ばかりですがご容赦下さい。時々日付をさかのぼってアップしたりします。http://tanabe.easy-magic.com


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